土曜日, 1月 01, 2005

始まり 

2004-1231-1631.jpg明けましておめでとう
カウントダウンに
除夜の鐘
響く音色は違っても
ページをめくる想いは同じ
今年は何を書き込もう


[今日のメモ]
ピラト:イエス・キリストが十字架に架けられたときのユダヤ、サマリア、イドマヤを治めたローマの第5代総督。今、「ベン・ハー」を見ているもので。。。

電力というのは、電流によって単位時間になされる仕事の量のこと。電力の単位はワット(W)。

電力(W) = 電流(A) × 電圧(V)

という関係がある。

静電気:電子が、物体の中に余っている状態、あるいは、少し足りなくなっている状態のこと。少しだからビビッとくる次第。少しじゃなかったら大変なことになってしまう。

金曜日, 12月 31, 2004

雪、雪、雪が降り 

2004-1231-1435.jpg

冬の地面に雪が降り
色なき地面を白く染め
雪、雪、雪が覆いさり
全てのものを包みさり
今年の汚(けが)れを拭いさる
年を待たずに拭いさる


[今日のメモ]
平安時代、遠流とは常陸、安房、佐渡、土佐、伊豆、隠岐の六国に流すことだった。
源 頼朝は伊豆国に流されたから遠流ということになる。

平安時代、中流とは伊予、周防に流すこと。中流とは言っても現代のサラリーマン意識のことではない。

平安時代、近流とは越前と安芸に流すことだった。

源平合戦の折の平家の旗色の赤は古代中国思想を反映したものと言われている。

札(ふだ)を用いる賭け事で、自分に都合良く札を切ることを手目という。

スイスのジュネーブはケルト語で河口という意味の gena に由来している。

木曜日, 12月 30, 2004

カラバッジョ 

イタリアの画家カラバッジョ(1573-1610)は本名をミケランジェロ・メリシと言ったが、少年時代を生まれたミラノの近くのカラバッジョ村で過ごしたことからカラバッジョと呼ばれた。

親戚同士で横浜とか東京とか札幌なんて呼び合うのに通じるところがある。

P波 

地震の縦波のことを、ラテン語の「最初の」という意味の"primae"からP波と呼ぶ。
語源から分かるように地震が発生して最初に到達するのがP波。
このP波は体積の変化が移動するもので固体だろうが、液体だろうが、さらに気体であっても通過する。

ニコバル諸島 

インド連邦政府の直轄領。
インド洋上の要衝の地に当たり、インド軍と中国軍が睨みあう地でもある。
古くは、マルコポーロの『東方見聞録』でもネクヴェラン島/翠藍島として記述がある。
英国が18世紀に進出して、英領インドや英領ビルマの反英活動家などの流刑地として利用。
第二次世界大戦時には、日本軍が占領しスワラジと改名し自治政府に統治させた。
1950年からは連邦政府直轄領。
総面積は1950平方キロメートル、人口4万ほどと言われる。

淮南子 

前漢の第7代皇帝武帝の時代(在位141B.C.-87B.C.)に、中央の儒教化政策に反発した淮南王劉安(179B.C.-122B.C.)が道家思想を中心にまとめたもの。

宇宙とは 

「宇宙」とは中国は漢の時代の『淮南子(えなんじ)』という本の中の言葉に由来する。
その斉俗篇に、
「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」
つまり
「往古来今(おうこらいこん)これを宙(ちゅう)といい、四方上下これを宇(う)という」
とある。

唐三彩 

中国の唐(619 - 907)時代の陶器の名称。
素地の白、緑釉、褐釉の三色で彩色されたことからの名称。

[参考]中国歴代王朝の美

昨日、「美と歴史」をリニューアル。
久しぶり、久しぶり。

火曜日, 12月 28, 2004

がさ市 

鎌倉に住んでいるKさんから長谷寺の歳の市に行って来た話しを聞く。
でも、やっぱり、歳の市は浅草だという。鎌倉でもいいじゃないかと思って尋ねる。すると、浅草寺の歳の市は本堂の前と後ろの二カ所で開かれているとのこと。
本堂の後ろというと、塔頭が連なっている横の、観光バスが停まったりする広場辺りのことだろうか。そこでは〆縄などの飾り物が商われていて、藁が「がさがさ」ということから「がさ市」というのだとか。


[今日のメモ]
翼竜(Pterosauria):後期三畳紀(2億3000万年前)から白亜紀に繁栄した空を飛ぶ爬虫類のこと。

翼竜はグライダーのように大空を滑空していた。

翼竜はワニと恐竜の中間に分類される。つまり、翼竜は恐竜ではない!

ワニの卵の殻は単層。

恐竜と翼竜の卵の殻は多層構造。

現在の鳥は翼竜から進化したものではない。

四枚羽根の恐竜であるミクロラプトル・グイ(Microraptor Gui)が鳥への進化の鍵を握っていると考えられている。




跨湖橋文化 

中国の故宮博物院などからなる研究チームが、浙江省杭州市の跨湖橋(ここきょう)遺跡で2003年に発見された丸木舟を「中国最古の丸木舟」と認定するとともに、この文化を「跨湖橋文化」と、先日、命名した。跨湖橋文化は新石器時代中期(7000
B.C.- 5000 B.C.)に相当する。
浙江省には、夾炭黒陶から夾砂紅陶、灰陶を含む河姆渡文化(余姚;5000 B.C.- 4000
B.C.)、それに続く紅陶土器や鼎を主体とする馬家浜文化(嘉興南湖;5000 B.C.- 3800
B.C.)、その後の青銅器文化に続く黒皮陶や彩絵陶を含む良渚文化(3100 B.C.- 2200
B.C.)など多くの文化が存在したことが知られている。
跨湖橋文化は河姆渡文化に先立つ文化と言える。

道三と信秀の攻防 

1547年の今日、12月28日(旧暦天文16年11月17日)に、美濃の斎藤道三(1494?-1556)が反道三勢力の拠る大垣城を包囲。織田信秀(信長父;1508?-1550?)が兵を出して道三を破る。しかし、合戦の結果、結局は織田軍は大垣城を後に失うことになる。
『亨禄以来年代記』、『信長公記』

ミラノ勅令以降のモザイク画 

テオドシウス帝が394年にキリスト教を国教と定めたことでローマや首都ミラノではキリスト教の霊的権力を表現するためのモザイクが政治的権力の象徴としての荘厳な建築物を飾るようになる。
いろいろな大きさの色硝子と金、銀などをちりばめるテッサラと呼ばれる技法はサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂(430-440)を鮮やかに色づけ、ミラノのサン・ヴィットーレ・イン・ドーロ礼拝堂(470-)、サン・ロレンツォ聖堂サンタクイリーノ礼拝堂(五世紀末)も豪華さで知られている。

月曜日, 12月 27, 2004

ロシアの国旗 

ロシアの国旗はスラブ三原色と呼ばれる赤、青、白。
赤は愛と勇気のロシア人の色である赤を、白は高貴さと率直で知られるベラルーシ(白ロシア)人の色である白を、青は名誉と純潔性を誇るウクライナ人の色である青を象徴。
ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人は広い意味でのロシア民族と考えられている。

シロナガスクジラの激減 

シロナガスクジラは、1900年頃には南太平洋で20万頭いたとされるが、約100年経った2004年現在では多くても2000頭、少なくて1200頭程度に減少していると考えられている。
100年の間に1%以下に減ったことになる。

日曜日, 12月 26, 2004

天平の美 

天平の甍と呼ばれる奈良・唐招提寺の金堂の解体修理で天応元(781)年伐採の桧(ひのき)が見つかったと奈良県教育委員会が発表した。
781年というと、白壁王と呼ばれた高齢の光仁帝が息子の山部親王こと桓武帝に譲位して退位した年に当たる。光仁帝は、それまで続いた天武帝系の血筋が絶えたために、かつて皇統を争った天智系から擁立された天皇。天武元(672)年に起こった天智帝の後継者、大友皇子(弘文帝[追号])と、天皇の実弟・大海人皇子(天武帝)の間の皇位継承権を巡る壬申の乱以降の流れが変わった時代でもある。
天智帝は親百済政権、一方の天武天皇は親新羅政権と言われ、この両統には朝鮮半島の情勢が色濃く反映している。7世紀の朝鮮半島は高句麗(コグリョ)、新羅(シルラ)、百済(ぺクチェ)の三国時代(B.C.57-A.D.676)。新羅は唐と連合を組み百済を攻撃。百済は660年に滅亡。これに対して、日本が派兵するも、百済・日本連合軍が663年に白村江の戦で敗れると多くの百済人が日本に亡命した。新羅は668年に高句麗も併呑し朝鮮半島を統一した。こうしたことを背景として、親百済を掲げていた天智帝の宮廷は危機感に揺れた。
そうした時代を経て、天武帝妃の第41代持統帝(在位686-697)の白鳳期から時代は天平期(7010-781)に入る。日本の首都が藤原京から平城京に遷都された時から長岡京へと遷される時までに当たる74年間の天平期は日本の仏教美術史が開花する時代。
その間に、
第42代 文武帝[在位697-707]
第43代 元明帝(草壁皇子妃) [在位707-715] ●
第44代 元正帝(文武帝皇姉) [在位715-724] ●
第45代 聖武帝(文武帝皇子) [在位724-749]
第46代 孝謙帝(聖武帝皇女) [在位749-758] ●
第47代 淳仁帝(天武帝皇子舎人親王皇子、淡路廃帝) [在位758-764]
第48代 称徳帝(孝謙帝重祚)[在位764-770] ●
の7代の天皇が即位したが、そのうち、●印を付けた4代が女帝。
これは面白い事実だと思う。
その中で、仏像も白鳳期の小振りなもの中心から大きなもの、かつ写実性の高い東大寺戒壇院四天王像や新薬師寺十二神将像などの作品が数々生み出された。乾漆像の東大寺法華堂不空羂索観音像、塑像の東大寺法華堂日光・月光菩薩像、東大寺法華堂執金剛神像、東大寺戒壇院四天王像、東大寺盧舎那大仏、興福寺阿修羅像、興福寺十大弟子像(乾漆像)、唐招提寺金堂盧舎那仏像(乾漆像)、新薬師寺十二神将像(塑像)、聖林寺十一面観音像(乾漆像)。
いづれも名品揃い。特色としては、天平期に続く平安京遷都の延暦13(794)年から遣唐使が廃止される寛平6(894)年までの弘仁・貞観期以降は仏像は木彫像が中心であることと、天平期以前の飛鳥期にも木彫像が中心であるのに対して天平期は脱活乾漆造(唐招提寺本尊盧舎邦仏像は時期としては例外)から木心乾漆造、そして木彫像一部乾漆造と乾漆造が中心だったこと。
絵画では正倉院鳥毛立女屏風に薬師寺吉祥天像などが知られている。
さて、鑑真和上(688-763)が榮叡と普照の要請で苦難の末に来日したのは天平勝宝5(753)年。孝謙帝の治世に当たる。先代の聖武帝は遣唐使による中国龍門の奉先寺盧舎邦大仏像の報国を耳にして東大寺盧舎邦大仏像の造像に踏み切ったと言われる。そうしたことを考えると、将に仏教美術が日本において花盛りの時。丁度、その隆盛時に鑑真和上は日本に多く仏教知識をもたらした。
この鑑真和上は新田部親王の旧宅を貰い受け唐招提寺を創建したと伝わる(759年)。ここに、760年頃に平城宮にあった東朝集殿を講堂として移築したのだという。
しかし、金堂に関しては明確な資料がないことから、国宝の本尊、盧舎那仏坐像の様式から創建時とする考え方から810年代とする考え方まで様々な考え方があった。
しかし、今回の奈良文化財研究所による金堂の垂木の年輪年代法での調査の結果が天応元(781)年となったことで、金堂の建立は天平末期の780年代ということが確実になった。


西の京へ(2004/11/10)
11月に吉野、奈良に「美と歴史」の旅を敢行!


[唐招提寺] 白く覆われている建物が修復中の金堂。

弟子の忍基がつくった鑑真和上像
この像は行信僧都像と並んで天平期の特徴である写実主義の頂点を極めた作品。
こうした天平写実主義は末期には東大寺戒壇院四天王像やバロック的と形容される新薬師寺十二神将像のように男性的、誇張的な表現に変化していく。

This page is powered by Blogger. Isn't yours?