土曜日, 1月 10, 2004

黒ゴマ牛乳を飲む 

丸将木曽路家 黒ゴマきな粉 280g
これを牛乳に溶かして飲む。冷たい牛乳でもグルグルと掻き回すと意外にも簡単にきな粉牛乳の出来上がり。但し、当然だけれども黒ゴマは溶けようがない。だから、飲む時に少しだけノドチンコにくっ付く。でも、それも健康のため、健康のため。

木曜日, 1月 08, 2004

福寿山徳蔵寺 


武蔵野33観音霊場の第7番。鎌倉期飽間斎藤氏が白衣観世音を安置したのが始まりという。或はまた新田義貞が戦勝祈願のために開基したとも。鎌倉時代には板倉氏の居城があった。開山は江戸時代の元和2(1616)年壁英禅師による。なお、境内には八国山の地にあった永春庵がある。また、新田義貞の鎌倉攻めのおりに戦死した義貞の部下の斎藤氏の供養のために建てた元弘の板碑がある。
東京都東村山市諏訪町

水曜日, 1月 07, 2004

幕末を読み直す―通説が語らない「歴史」の真実  中村 彰彦 

歴史小説を手がけてきた著者がその執筆の過程で出会った「史実」に関して綴ったエッセイ集。
会津へ向う途中で、しかも校正中に目にした消費税率5%へという文字が筆者であった「史実」を媒介として保科正之の先進性に思いが馳せられるというところを面白く読ませてもらった。保科正之がおそらくは日本で初めての国民保険制度、これは90歳以上の人に禄米を支給するというもの、を施行したという史実。そして、日本の軍事費が膨大なものとなっていった時代を引き、一時期、ロシアに備えて臥薪嘗胆という、その一言で以って海軍費が陸軍費を上回ったという史実。この両者の史実と消費税5%を結び付け、臥薪嘗胆という言葉一つで膨大な軍事費を容認した国民を納得することのない現代の政治を嘆いてみせる。
そして、人が時代とともに進歩するという幻想を保科正之の先見性を引き合いに出すことで打ち砕く。その過程で著者自身の原稿の文章も打ち砕かれるというところは愛嬌といったところだろうか。


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火曜日, 1月 06, 2004

S倉迷妄通信 笙野頼子 

笙野頼子の日常を笙野頼子が綴る。雑司が谷から千葉のS倉へ越してからの日常を描いているのだけれども、そこはただの作家ではない笙野頼子。日常を描いているのであるのだろうが、そこがまた非日常の趣き。一体どこまでが事実である日常でどこまでが小説としての日常なのか。はたまた、そもそも全ての日常が小説的であるというのか。
「S倉迷妄通信」、「S倉妄神参道」そして「S倉迷宮完結」の三部作が収められている。
しかし、私のお薦めはそこかしこに散りばめられた4匹の猫達の写真の数々。これがまた可愛らしくて微笑ましい。写真を見ては笙野頼子の日常を読みと、繰り返しているうちに自分の日常までも非日常化していくような錯覚に。


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月曜日, 1月 05, 2004

間 新六光風(1681-1703) 供養塔 

赤穂浪士討ち入りに、父の間喜兵衛光延と兄の間十郎光興とともに参加。麻布の毛利邸で切腹し他の浪士とともに高輪の泉岳寺に葬られた。光風は本願寺築地別院の檀家であったと思われ本願寺にも供養塔がある。写真はその供養塔。
光風と築地本願寺とを結びつける伝承として、吉良邸討ち入りの後、泉岳寺に向かう途上で自身の供養を願って槍に書状と幾ばくかの金額を附けて寺域に投げ入れたという話が伝わっている。
初めの供養塔は娘婿の中堂又助が建立したが、天保5(1834)年の火災で焼失し、写真の供養塔は羽佐間宗玄の手による再建。

あの世 この世 瀬戸内 寂聴,玄侑 宗久 

「聖徳太子の法」:色々な人の話を聞くと、かえって一人一人の話が気にならなくなる。そこから、ものは考えようであり、悪く言われたら良いように解釈して前向きに考えようという。

NHK「ETVスペシャル」で放送された対談などを収録したもの。題名の通りに宗教的な話題が中心。但し、宗教的とはいってもほんわかとしている。
自分を愛するということに関して、瀬戸内 寂聴さんが美輪明宏さんに教わったという鏡を見るようにすると自然と自分が可愛くなるということを紹介。これに対して、玄侑さんが語る「聖徳太子の法」というのが面白い。なんなのだそれは、と思わず本を近づけて読み入ってしまった。聖徳太子は様々な人の意見を一度に聞いたとされている。聞くだけ、いや聴くだけなら凡人でも可能だろう。聖徳太子の厩戸皇子ではなく聖徳太子たるところは、全てを聞き分けたというところにある。しかし、ここで玄侑さんが言うところの「聖徳太子の法」というのは少し違う。色々な人の話を聞くと、かえって一人一人の話が気にならなくなる。そこから、ものは考えようであり、悪く言われたら良いように解釈して前向きに考えようという。そういうことなのだそうだ。
ある種、独特な解釈なのではあるのだろう。
それ故に、新鮮な気がした。
この種のことはしばしば言われることであり始めて聴く、いや聞く内容ではない。初めての内容ではないのだけれども、そこに聖徳太子を絡めたことで、何とは無しに妙に納得してしまった。


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