土曜日, 11月 20, 2004

牛とん包 

長浜名物。
あまりに美味しそうだったのでペロリ。


豊国神社(長浜_近江) 

長浜は豊臣秀吉による楽市楽座の地租300石免除が契機となって発展した。そのため、長浜商人は慶長3(1598)年に秀吉がこの世を去ると城下に豊国神社を建立する。ところが、豊臣家が徳川家によって滅ぼされ、徳川幕府の世となると豊臣秀吉を神格化して祀ることが許されなくなり、長浜の豊国神社も取り壊される。
豊臣秀吉の神像は密かに町役人が守ったが、寛政5(1793)年にえびす宮を建立し神像を密かに祀った。まるで九州の隠れキリシタンのような話であるが、これが豊国神社の始まり。正式に豊国神社という名称が復活するには明治維新で徳川幕府が倒れるのを待たなければならなかった。
豊臣秀吉公の他、加藤清正公、そして事代主命えびす宮、木村長門守重成公を祀る。






長浜八幡宮(長浜_近江) 

知善院から再び大通寺に戻り、境内を抜けて門前の通りでショッピングを楽しみ長浜八幡宮へ向かう。
この八幡宮は延久元(1069)年に源 義家が石清水八幡宮を勧請したものというから、おそらく、長浜の中では最も古い部類に入るであろう。長浜八幡宮は華やかな通りから国道を一本隔てた場所に鎮座している。
ひっそりという形容詞が似つかわしく思えたが、この八幡宮は秀吉が男子出生の祝いの行事を行ったことに起源を持つという春の例祭長浜曳山祭の舞台となる場所。






慈雲山浄琳寺(長浜_近江) 

長浜市街にある浄土真宗大谷派の寺。
残念ながら公開されていない。
もともとは浅井郡の尊勝寺にあったが、蓮如に帰依して浄土真宗となった。天正元(1572)年に浅井氏が織田軍に滅ぼされると小谷城下から長浜に移転したという。
それにしても、非常に目立つ。
目立つ建物の割りには人が集まっていないので近寄ってみると非公開の文字。ともあれ、見事な建物は太鼓部屋といい寛政10(1798)年に権律師恵天によって建てられたものという。



知善院(長浜_近江) 

長浜御坊大通寺を後にして引き返すような形で知善院に向かう。中学校の歴史ウォーキング案内のような催し物が行われていて要所要所に中学生がパンフレットを持って観光客に呼びかけている。
天台宗寺院である知善院は豊臣秀吉が長浜城を築城するにあたって鬼門守護として小谷城下から移転させたのだという。将に豊臣秀吉に縁のある寺院。山門は長浜城の裏門だとされているし、本尊の阿弥陀如来、日光、月光三尊像は播磨の書写山から秀吉が中国遠征の折に持ち帰ったものという。
観音堂の中には運慶作とされる重要文化財の木造十一面観音像が祀られている。








大通寺(長浜_近江) 

近江の地は浄土真宗中興の祖である蓮如上人の布教活動の最大の拠点であったことで知られる。中でも、坂田、浅井、伊香の湖北三郡は真宗王国と称され、その中心となったのが長浜御坊と呼ばれる大通寺だった。
今でも、長浜の町に大きな存在感を示している。アーケード街は大道寺の前を寺に平行する形で走っているが、その街路と山門から伸びる門前の通りが直角に交差する様は長浜の一方の主人公が御坊であることを如実に物語る。
大通寺のそもそもの始まりは湖北三郡の信徒が織田信長と対峙する石山本願寺の支援のための寄合道場なのだという。ということは、始まりからこの寺は庶民と深く結びついていたことになる。
天正8(1580)年には本願寺の顕如上人は織田信長と和睦。これに対して、顕如上人の長男の教如上人が反発し袂を分かつ。教如上人は織田軍との戦闘継続の檄を全国に飛ばし、湖北三郡の信徒もこれに応じる。
時代は移り徳川家康が天下に号令するようになった慶長7(1602)年に教如上人は家康によって東本願寺(大谷派本願寺)を興すことを許される。そして、長浜御坊は無礙山大通寺として再出発する。現在の地に伽藍を移転したのは慶長11年。
大通寺は寄合道場であった昔から本願寺との繋がりが密接であったために当初は本願寺から直接僧侶が派遣されていたという。また、本願寺支援のために湖北三郡の信徒が集まったという経歴から三郡の浄土真宗の寺院が共同で寺の運営に当たっていた。それが変わるのは大谷派第13世宣如上人の時。宣如上人の三男の霊瑞院宣澄が寛永16(1639)年に大通寺の住職として宣如上人から派遣される。同時に彦根藩主井伊直孝によって寺の修復が着手され東本願寺にあった伏見桃山城の遺構である本堂や広間が移転。
これが現在目にすることの出来る大通寺となっている。

街路を抜けるとずんと構える山門に迎え入れられる。
この山門は文化5(1808)年に起工され天保11(1841)年落成の総欅造。長浜市の指定文化財。


実は、最初は、下の写真の脇門から大通寺に入った。単に道を知らなかっただけなのだが。ともかくも、近江牛ランチを食した後、その横の道を真っ直ぐに進んだら脇門に出た。この門は扉の裏に天正16(1588)年の銘があり長浜白の追手門を移したものという。


堂々たる本堂阿弥陀堂。これは重要文化財に指定されている。当日は菊の花々に彩られていてなお一層映えていた。この本堂は伏見城の遺構が東本願寺に御影堂として移築されたものを承応年間(1652-4)に大通寺の本堂として再度移築したもの。
長浜御坊と呼ばれる大通寺と東本願寺、そして徳川家との繋がりの深さの象徴とも言えよう。




長浜の風景 

多賀大社前駅から近江鉄道に乗って高宮駅経由で彦根へ。今日の宿は彦根なのだけれども、彦根は数年前に城を含めて回っているので、今回は長浜に向かう。彦根駅でJRに乗り換えて長浜駅に。
長浜は昔は今浜と呼ばれ延元元(1336)年に足利高氏の同友として知られる佐々木(京極)道誉が出城を築き、今浜氏や上坂(こうざか)氏が城将として統治した。その後、京極氏に代わって浅井氏が勢力を伸ばすと今浜も浅井氏の町となる。その浅井氏が織田信長との戦いに敗れると、織田信長の配下の豊臣秀吉が天正2(1574)年に城を築き今浜の名を長浜と改めた。これが長浜の始まり。
この長浜と言えば芋菓子の「芋平」で知られる。そういえば、小江戸と言われる蔵の町、川越も芋で有名。どことなく長浜は川越の町並みに雰囲気が似ている。但し、長浜の町のほうが川越の町よりも規模が大きく感じる。
織田信長が京・本能寺の変に斃れると、清洲会談によって秀吉は長浜を離れる。代わって、天正10(1582)年から柴田勝豊が入城。柴田氏の後は山内一豊、慶長11(1606)年からは内藤信成が5万石で統治した。しかし、大阪の陣の後に内藤信正が長浜から転封し、その後は彦根藩領に併合され長浜城も解体された。


[北国街道]


[黒壁スクエア]
北国街道沿いにあって長浜観光の中心と言える場所。


[大手門通り]
この日は甘酒が一杯50円で振舞われていた。






こんな一コマも。


多賀大社(多賀_近江) 

米原駅から近江鉄道に乗り高宮駅で乗り換えて多賀大社前駅へ。朝9時台ということもあって高宮駅から一駅目で終点の多賀大社前駅まで貸切状態。
その多賀大社前駅を出たところにある鳥居。鳥居の両脇に旅館が残る。現在は営業していないようだけれども、建物の造りに多賀詣での盛んだった頃を偲ぶことが出来る。


多賀大社駅前から大きな鳥居を潜って農協前を抜け橋を渡って左に折れる。そこは絵馬通りと呼ばれる門前のメインストリート。絵馬通りと言われるだけあって通りに面した民家の軒先には「笑門」の絵馬が掲げられている。


真如寺から少し進んだところで多賀大社の境内に入る。但し、これはいわば脇道。
そこに鎮座するのが摂社の日向神社。天津日高日子火之瓊々杵尊を祀る。良く見ると徳川家の葵の紋がある。これに注目。


徳川家が多賀大社の修復に尽力したことを表す大釜。それで、先ほどの日向神社に葵の紋があったわけだ。


多賀大社は伊勢神宮が祀る天照大神の両親に当たる伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀る古社。鎌倉時代には犬上郡総鎮守とされ神主は鎌倉御家人という特権を有していた。やがて、坊人と呼ばれる下級神人が日本各地を廻り「お伊勢参らば、お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」あるいは「お伊勢へ七度、熊野へは三度、お多賀さまへは月参り」という言を広め信仰を集めた。
近江の寺院を焼き討ちした織田信長も信仰し、甲州の雄、武田信玄も寄進を行っている。中でも、豊臣秀吉は天正16(1588)年に母親の病気平癒のために祈祷を依頼し、母親の病気が平癒したことに感謝し多賀大社の社殿改修を行うとともに1万石を寄進している。
また、天文24(1555)年鋳造の鐘には浅井長政の名も浅井猿夜叉として残る。


[神門]


[太閤橋]


[絵馬通りの風景]





金曜日, 11月 19, 2004

[美と歴史]エジプトの不変性 

エジプト美術の最大の特徴は、エジプト3000年の歴史の中で、アマルナ期の約10年間を除いて表象様式にほとんど変化が見られなかったことだと言える。
これは、エジプト人が拠り所とした世界観、この場合は宗教観あるいは死生観と言っても良いのかもしれない、それが3000年の長きにわたって大きな変化をしなかったということの反映でもある。そして、こうした不変性は、ヨーロッパ世界の藝術様式がギリシア美術、ローマ美術、初期中世美術、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、マニエリスム、ロココ、新古典主義、浪漫主義、印象派、象徴主義、表現主義、フォーヴィズム、シュールレアリスムなどと目まぐるしい変遷を遂げてきたのとは対照的。
しかも、エジプト3000年の中では、B.C.3000年頃のナルメル王によるエジプト統一によって誕生した第1王朝からB.C.30年のクレオパトラの自殺によるプトレマイオス朝に至るまで、初期王国時代、古王国時代、第1中間期、中王国時代、第2中間期、新王国時代、第3中間期、末期王朝時代の8区分30王朝が立っていた。そうした政治的変遷の中で、プラトンが『法律』の中で語ったように、エジプトの藝術家達は先祖伝来の伝統に背くものを作り出すことは許されず、それ故に当時のエジプト藝術の中に明確に古来のエジプト藝術を見出すことが出来るという状況が続いたことは驚くべきことと言わなければならない。
もちろん、これは変化を好む現代の視点からの判断でという限定付き。


[美と歴史]ウェルデニウスによるプラトン解釈 

「芸術が、現象する実在の領域によって、真の<存在>の水準から分離されているがゆえに、芸術上の示唆は、理想的な諸価値に直接に関わることはできない。だから、芸術上の示唆は、可視的諸対象を再現することをもって満足しなければならず、また、それが生気のない摸像以外のなにものをも作り出すことができない限りにおいて、物的実在の前に卑下しなければならない。しかし、私達が既に見たように、真の芸術は神の声によって霊感を与えられているのであり、美の理想的な模型に関わるのである。ところで、実在の階位的構造は、理想的な<形相>が可視的物体のうちに直接に現れることを妨げる。」
「その可視的現れにおいては、芸術は最も劣った価値のもの、影である。しかし、芸術は、また、事物の本性との間接的な関係をもっている。この関係の強さは、芸術家が、中間の水準、即ち視覚的実在、のより高い諸相を明らかにすることにどの程度成功しているかにかかっている。このように、模倣は、階位的実在観に照らして見るとき、芸術における写実主義と理想主義との和解をもたらすことができるのである。」
(ウェルデニウス[W.J.Verdenius]著、渡辺義治訳『ミメーシス』、未来社、1984年)

[美と歴史]プラトンの藝術家観 

プラトンは『国家』の中で次のように語り、ミメーシスを行うもの、これは藝術家のことを指すのだけれども、彼らを真実の世界からは遠く隔たったものを造る人々であるとして理想国家には不要だとまで言い切っている。
こうした藝術観は長い間影響を及ぼすことになる。
「絵画およびミメーシスの術は、真理から遠く離れたところに自分の作品を作り上げるというだけでなく、他方ではわれわれの内の、思慮(知)から遠く離れた部分と交わるものであり、それも何一つ健全でも真実でもない目的のために交わる仲間であり友である」
(藤沢令夫訳『国家』下巻、岩波文庫)

[美と歴史]ソクラテスの美学 

ソクラテスがヒッピアスに応えて曰く、
「美は多くのものに固有の属性ではない。なるほど、人、馬、衣服、少女あるいは竪琴は美しいものだろう。しかし、これら全ての上には美それ自体がある」
(『大ヒッピアス』)

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