土曜日, 11月 20, 2004

大通寺(長浜_近江) 

近江の地は浄土真宗中興の祖である蓮如上人の布教活動の最大の拠点であったことで知られる。中でも、坂田、浅井、伊香の湖北三郡は真宗王国と称され、その中心となったのが長浜御坊と呼ばれる大通寺だった。
今でも、長浜の町に大きな存在感を示している。アーケード街は大道寺の前を寺に平行する形で走っているが、その街路と山門から伸びる門前の通りが直角に交差する様は長浜の一方の主人公が御坊であることを如実に物語る。
大通寺のそもそもの始まりは湖北三郡の信徒が織田信長と対峙する石山本願寺の支援のための寄合道場なのだという。ということは、始まりからこの寺は庶民と深く結びついていたことになる。
天正8(1580)年には本願寺の顕如上人は織田信長と和睦。これに対して、顕如上人の長男の教如上人が反発し袂を分かつ。教如上人は織田軍との戦闘継続の檄を全国に飛ばし、湖北三郡の信徒もこれに応じる。
時代は移り徳川家康が天下に号令するようになった慶長7(1602)年に教如上人は家康によって東本願寺(大谷派本願寺)を興すことを許される。そして、長浜御坊は無礙山大通寺として再出発する。現在の地に伽藍を移転したのは慶長11年。
大通寺は寄合道場であった昔から本願寺との繋がりが密接であったために当初は本願寺から直接僧侶が派遣されていたという。また、本願寺支援のために湖北三郡の信徒が集まったという経歴から三郡の浄土真宗の寺院が共同で寺の運営に当たっていた。それが変わるのは大谷派第13世宣如上人の時。宣如上人の三男の霊瑞院宣澄が寛永16(1639)年に大通寺の住職として宣如上人から派遣される。同時に彦根藩主井伊直孝によって寺の修復が着手され東本願寺にあった伏見桃山城の遺構である本堂や広間が移転。
これが現在目にすることの出来る大通寺となっている。

街路を抜けるとずんと構える山門に迎え入れられる。
この山門は文化5(1808)年に起工され天保11(1841)年落成の総欅造。長浜市の指定文化財。


実は、最初は、下の写真の脇門から大通寺に入った。単に道を知らなかっただけなのだが。ともかくも、近江牛ランチを食した後、その横の道を真っ直ぐに進んだら脇門に出た。この門は扉の裏に天正16(1588)年の銘があり長浜白の追手門を移したものという。


堂々たる本堂阿弥陀堂。これは重要文化財に指定されている。当日は菊の花々に彩られていてなお一層映えていた。この本堂は伏見城の遺構が東本願寺に御影堂として移築されたものを承応年間(1652-4)に大通寺の本堂として再度移築したもの。
長浜御坊と呼ばれる大通寺と東本願寺、そして徳川家との繋がりの深さの象徴とも言えよう。




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