土曜日, 3月 08, 2003

北野を散策す 

洋食バイキングでお腹を満たした後に、東西線、烏丸線、阪急線を乗り継いで四条大宮へ。ここから京福に乗り、帷子の辻で北野線に移って北野白梅町に向かう。
島津の本社が車窓に映る。
今日は、曇りになるとのことだったと思うのだけれども、雨が強い。
白梅町で下車した時には雨は小降りに。
駅前の交差点を渡り、真っ直ぐの道を北野廃寺の石碑を左手に見ながら歩く。大きな鳥居を中に入り、まずは土蜘蛛で知られる東向観音にまずは参詣。
天満宮は紅白の梅、梅、梅。秩父長瀞の宝登山の蝋梅も見事だけれども、天満宮には威厳がある。
天満宮を東に抜けて、上七軒町の町屋を見ながら千本釈迦堂に進む。上七軒町の薬局で「サロンパス」を買う。公園を脇に見て更に東へ。それにしても町屋はノスタルジーを感じさせる。自分の故郷でもないのに、故郷に戻ってきたという思いがしてくる。
嵯峨野の清涼院の釈迦堂には行ったことはあるけれども、こちらの釈迦堂は初めて。ここは応仁の乱の際に山名宗全率いる西軍の本陣が置かれたところであり、将に西陣の中心。宗全の持仏なども祭られている。
本堂の柱には応仁の乱の刀傷がそのままに残る。
さらに東に行くと商店街に出る。道路の向こう側に「ハートの昆布」で有名な店がある。その店の前を通り、少しいくと釘抜地蔵はすぐそこだと言う。公衆電話の側と教えられ、くるくると前後左右を見回していると、本当にすぐ側に入り口がある。
釘抜の名の通り、釘と釘抜きが面を埋め尽くしている。手を合わせた後に道路の反対側、つまりは来たほうに戻る。
お昼近くということでお腹が少しすいてくる。目の前にあった「天麩羅屋さん」の綿熊で80円の野菜天麩羅を買い、とても上品とは言えないのであるけれども、食べながらゆるりと歩く。次なる目的地は千本閻魔堂。
閻魔堂の鐘楼と門を勘違いし、しばし閻魔堂の周りを歩く。ここでも、親切な地元の方に教えてもらう。感謝。
ユーターンして上七軒町までの帰途に。観光で来ているわけなのだが、商店街で日用雑貨を物色。靴下が安かったので三足購入。一足100円也。
同じ道を戻ったのでは面白くはないというわけで、天満宮までの帰り道は一本ほど南側を歩く。どの景色も趣きがある。
天満宮への道すがら、食事は天満宮側の湯豆腐点でと決めていたので、上七軒のケーキ店(ケーキ屋北野)でケーキセットを食す。これはある意味で良い誤算をもたらす。このお店、ケーキが凄く美味しかった。家が近くであれば、ケーキの他にも美味しそうなスコーンを買って帰りたい気持ちにさせてくれる。
店を出て反対側に何やらおいしそうなお店がある。誤算というのはこれ。ケーキ店に入らずに、そのままそぞろ歩きを続けていたならば目に留まることは無かっただろう。美味しそうで、なおかつリーズナブルな価格。お腹も空いている。もっとも、ケーキとコーヒーを戴いたので少しはスペースは狭まってはいる。
このお店(「弥兵衛」)、「みそかつ」で知られているお店だったのであるが、当方、そのようなことは露も存ぜず。日替わりを注文。すると、日替わりは後1つしかないとのことで、連れはオムライスにする。この日替わりこそが「みそかつ」だったのである。堪能している間にも、「みそかつ」目当ての客が何組か来店し売り切れを知ると残念そうに立ち去っていった。なんとも、まぁ、いいタイミングで美味しいものに有りつけた。ちなみに、オムライスも有名になってしかるべきほどのもの。
雨は降ったり止んだりといった状況とはいえ、昨日程ではない。
天満宮の境内を抜けたところで、いい具合に道を渡ったところに銀閣道に向うバスがいた。このバスに飛び乗って、秋には行けなかった真如堂へと向う。
真如堂前でバスを降りるも、肝心の真如堂への入り口が見当たらない。なにやら、こういうこともパターン化してきている。あるいは、全く学習効果がないということか。そうだとすれば反省せねばなるまい。少し歩くと、もう次の停留所が見えてくる。ということは、降りたところと、見えてきている停留所との間のどこかに真如堂があるはず。バスの車庫があったので聞くと、すぐ裏の小高いところが真如堂。小川を越えて坂を渡って、真如堂に至る。斎藤利三の墓があるということなので詣でる。入り口から程近くにあるのだけれども、分からずに奥の突き当たりまで行ってしまう。引き返してようやく墓に詣でることが出来た。手を合わせて、今度は隣りの黒谷の会津藩士の墓地に行く。ここは、鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士の方々が眠っている。
行きすがら池坊家歴代のお墓に手を合わす。この他にも、同じ苗字の竹内家の墓もあったので関係がないものの、同じ苗字を持つものとして手を合わす。祖父方の姓である田辺家の名もあったので同様に手を合わす。
ここから、一度京都駅にバスで戻ってコーヒブレークした後に四条経由で四条河原町で降り、錦市場をぶらつく。湯葉が美味しいので湯葉に目が行く。湯葉は京都駅にも置いてあるけれども、これだけのものはない。
錦市場を抜けて大丸で北海道展を覗く。寿司を少し摘もうと安易に考えたのだけれども、30分待ちだということで、諦めて祇園を目指す。目当ては今日も「花灯路」。食事は石塀小路の「京浜作」で湯葉会席。
川原町の交差点まで歩いて不二家でケーキを購入し、橋を戻って京阪四条から三条に出て東西線に乗り換えて二条城に帰る。コンビニでコーヒーを買って部屋でコーヒーブレーク。明日は最終日。

★京浜作:円山公園から大雲寺方面に歩いた、ねねの道の入り口にある。湯葉会席は3,500円。
東山区高台寺北門通下河原東入鷲尾町512

金曜日, 3月 07, 2003

万年山等持院 

歴代室町将軍の墓所。臨済宗天龍寺派也。
そも、初代足利高氏は暦応2(1341)年に現在の御池・柳馬場の辺りに等持寺を建立す。現在の等持院は之にはあらず。
その2年後に墓所として併設されしが別院北等持寺と言ふ。之が現在の等持院也。院は高氏死去後に等持院と称し現在の名称となる。
其の後、本寺たる等持寺が応仁の乱の兵火により焼失したことにより別院たる等持院を以って本寺となし現在に至る。
等持院にある「霊光殿」には、尊氏公念持仏地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊とし、禅宗の祖師達磨大師、等持院開山夢窓国師を左右に安置され、その前に歴代室町将軍坐像と江戸幕府開祖徳川家康坐像が揃ふ。




花灯路を楽しむ 

朝6時の「のぞみ」で京都。
目当ては、今日から始まる東山の「花灯路」と清水寺のご開帳。
一旦改札を出て、京都駅でコーヒーを飲む。これは、もう半ばワン・パターン化している。
午前中は、JR山陰本線の花園駅で降りて妙心寺へと向う。花園の駅までの間で親子連れと隣り合わせとなる。男の子はどうやら耳が多少不自由のようで補聴器を母親に付けてもらっていた。しかし、ゲームに興じている様は、そういうハンデを感じさせない。
駅の外は雨。今日は午前中は雨という天気予報。そのために、当初は鞍馬の温泉で寛(くつろ)ぐつもりであったところの予定を変更したのだ。
雨の京都よというのは実は初めて。
駅から妙心寺はそれほど離れていない。駅前の通りを歩いて少し行くとガソリン・スタンドが見えてくる。そこで道を渡ると参道になっている。
妙心寺は「瓢鮎図」で有名だけれども、本物は博物館に保管されている。ともあれ、春の特別公開を行っているということで、鐘や龍、そして庭園、それに光秀所縁の明智風呂などを見学。
次いで、再び花園駅前を通って今度は反対側に太秦の広隆寺を目指す。線路の下を潜って、小さな川を渡って進む。元来、道に迷い易い性質なので、常時、地図を携帯している。携帯しているとはいっても迷うことがある。そもそも、簡単な地図は分かりやすいのだけれども、重要ではない道が省略されていたりするもの。重要ではない道が現場では重要な道と同じくらいの道幅でしかも同じ方向でY字路になっていたりすると、どうもいけない。地元のおじさんに道を聞く。
途中、小さな社のある交差点を曲がって京福線の太秦の駅前へ。ここは、もう広隆寺の門の前に当たる。丁度というべきか、確信犯的にというべきか、計画通りというべきかお昼と相成ったため、広隆寺の国宝群を拝する前に「ひし伊」で食事。ミニ会席あさぎ、3,000円也。
広隆寺の国宝群の素晴らしさは、また別稿で触れるので、略。

太秦の駅。この日、写真の親子と門前ですれ違う。門前ではテレビの撮影もしていた。


京福電鉄の太秦の駅から帷子の辻で乗り換えて御室に移動。帷子の辻は檀林皇后に因む地名。嵯峨野の近辺にも同様の地名があったというが、現在残っているのは、この帷子の辻だけという。と書いたけれども、堪能する間もなし。乗換の電車が反対ホームに着いていたために階段を走る。
次の目当ては御室仁和寺。この寺に関しても別に改めて述べるので詳細は譲る。
駅を降りると直ぐ前に大きな三門が迫る。この山門を潜ると、向って左に庭園などへの拝観入り口がある。中に進むと、絵葉書で御馴染みの庭と五重塔のコントラストが目に飛び込んでくる。
次に目指すは、庭園で知られる竜安寺。京福で竜安寺道という手もあるが、歩いたとしても左程の距離ではないので歩く。途中に大きな屋敷がある。こうした屋敷も、また数百年の歴史を経ると文化財として光を放つのか。関係のないことをいろいろと妄想する。
莫妄想、である。
竜安寺の庭は素晴らしい。何を陳腐なと言われるかもしれない。さりとて、思わず横になってみたり、立ち上がったりして観賞する。この庭は記憶が正しければ中学の時に目にしている。
竜安寺の側には立命館大学がある。K氏が教鞭を執る学校だ。その近くに足利将軍家所縁の等持院がある。地図を片手に歩くも、少し道に迷う。竜安寺の目の前に妙心寺を指す案内板はあるものの、等持院関係はない。地図を信じてそれらしき方角へ歩を進める。
住宅街に入る。こうなって、案内板がないと不安なもの。しかも、道が別れている。考え込んでいると、助け舟を出される。いつも思うのだが、京都の方々は非常に親切。
おばさんに教えられた通りに歩いて等持院に着く。手前で新幹線の形をした幼稚園の送迎バスとすれ違う。バスはきっと人気者に違いない。
大覚寺、竜安寺と等持院、外観が良く似ている。当たり前と言えば当たり前ではある。
歴代の室町将軍の像を拝んで午後の予定を終える。

等持院に安置される足利義満公の木像


京福の等持院駅に着いたところで丁度電車が来る。ほとんど同時で遮断機を跨(また)ぐようにしてホームへ駆け込む。東西線経由で京都駅に戻り、預けておいた荷物を持って二条城の定宿へ。
夜、京都駅の萬重で食事。以前、来たときに昼食をとったところ。本店だと少し高めであるけれども、駅のほうは庶民的な値段。味も変わらない。京の味を胃袋に流し込んだ後、五条坂下に行く特別バスで清水寺に向う。
今日からの「花灯路」に合わせて要所要所で停まるバスを走らせているところは非常に便利。バスはすぐ来るし、五条坂下まで停まらないので早く着いた。ここから、何やらいつもの五条坂とは違う雰囲気。真っ暗で路が良く分からなくなるところであるのだけれども、警備員の方々が辻々に立っていて誘導してくれる。こちらは、何も考えずに坂を登る。参道の店が多くなる駐車場の辺りから路の脇に「花灯路」が出現する。何とも幻想的な雰囲気がある。

しかし、本当に幻想的だったのは、これから先の清水寺。奥之院の特別開帳。ご本尊と結縁する前に胎内巡りを体験する。長野の善光寺のそれとは異なり、本当に真っ暗。
数珠を伝って巡るのであるけれども、何も見えない。加えて、順路は円を描いているのではなく単純ならざる形をしているのだ。前の人すら見えない中で、胎内を巡る。地を歩いているのではなく、宙を浮遊しているかの如き感覚になる。
帰りは二年坂を下る。「山椒ちりめん」と「きんつば」を買い、「いもきんつば」を齧(かじ)りながら円山公園を抜けて、タクシーにて二条城へ。

妙心寺門前にて

駅から妙心寺はそれほど離れていない。駅前の通りを歩いて少し行くとガソリン・スタンドが見えてくる。そこで道を渡ると参道になっている。
当日は生憎の雨。京都に来て雨に降られるというのは今回が初めて。
それでも、花園の駅から妙心寺までの距離は僅かなものだから雨は苦にならない。そもそも、花園という名前そのものが妙心寺を表していると言ってもいいだろう。妙心寺、正式には臨済宗妙心寺派大本山正法山妙心寺の起源は花園帝(1297-1348)が、衣笠山の南に離宮を営んだことに始まる。帝は禅宗に帰依され、大徳寺開山大燈国師に教えを乞う。そして、帝は、この大燈国師の後に教えを乞う師がいなくなるのを心配したために、大燈国師が自らの法嗣である開山慧玄を推挙し、開山慧玄を以って離宮を寺院に変えたという。但し、この開山慧玄は自らを民衆の中に置く放浪の求道者でもあったために、美濃国伊深から京に招くのに三顧の礼を尽くしたとも言われている。
その開山慧玄亡き後は、南朝の藤原藤房こと第二世授翁宗弼、第三世無因宗因、第四世日峰宗舜、第五世義天玄承と受け継がれ、第六世雪江宗深の代に景川、悟渓、特芳、東陽の四傑から龍泉、東海、靈雲、聖澤の四派を生んだ。
この妙心寺は花園大学などの教育機関を擁していることでも知られている。しかし、驚くべきは、本山の中に子院塔頭が40を越えるということと、全国の3,500ヵ寺を越える寺院を抱えているということ。この数は最盛期よりは減っているらしいが、それでも物凄い数である。
ここは、また、数多くの文化財が犇(ひしめ)いている。
写真は、下立売通に面している南総門。

ライトアップされる清水寺三重塔




丁度、この日(3月7日)から清水寺奥之院御本尊御開帳。
寛永の再建から370年を記念して、鎌倉初期慶派作の本尊秘仏三面千手観世音菩薩坐像が243年ぶりに公開されるのを始めとして、と脇侍の秘仏地蔵菩薩立像(平安末期)、秘仏毘沙門天立像(鎌倉末期)も公開される。
この日は、随求堂の真下、随求菩薩の胎内を大数珠を手繰って巡る胎内巡りも体験。

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