土曜日, 3月 17, 2007

葛西橋 

荒川・中川を越え江東区と江戸川区を結ぶ葛西橋のふもとにて。もうすぐ、この江戸川区側に居を移すことになる。今日はその打ち合わせなどで西葛西へ。岩○さんと15:00までいろいろとお話。やらなくてはならないことは盛りだくさん。
長い間、北多摩と埼玉県との境の狭山丘陵の麓に暮らしてきた。
海から遠いことはもちろん、川も大きなものは流れていない。水といえば多摩湖と狭山湖。それが、ここ江戸川区は東に荒川、中川。西の千葉県との境には江戸川。南には東京湾。さらには、区内に様々な小さな川が流れている。
随分と環境の違いがあるので慣れるには時間が掛かるだろう。
一つ、楽しみなのは、岩○さんが行船公園の桜が綺麗だと教わったこと。

日曜日, 3月 11, 2007

梶川与惣兵衛頼照 

午前中までの雨が嘘のように午後はお出かけ日和。
そこで、中野区の上高田の寺町にある曹洞宗の禅刹である天徳院。徳川幕府2代将軍秀忠の次女で千姫の妹、加賀前田家に嫁いだ天徳院を寺号としている。
この寺には梶川与惣兵衛頼照(1647[正保4]-1723[享保8])の墓がひっそりと訪れる人もなく建っている。
赤穂浪士討入り事件の発端となった「刃傷松の廊下」事件で、吉良上野介義央と談笑中だった大奥留守居番の与惣兵衛は勅使接待役の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかる場面に遭遇してしまう(1701[元禄14]年)。
与惣兵衛が浅野内匠頭長矩を阻んだために、浅野内匠頭長矩は思いを達することは出来なかった。与惣兵衛は、この功績によって下総国葛飾郡の所領に加えて武蔵国足立郡に500石加増された。しかし、彼の一番の功績は事件の仔細を「梶川与惣兵衛日記」として遺したことだろう。ちなみに、与惣兵衛は不思議なことに、1684[貞享元]年の若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の時にもその場にいたという。
ここで思い出したことがある。
家康の父である松平広忠を暗殺した岩松八弥は植村新六郎家政に討ち取られたという。その新六郎は広忠の父の松平清康が家臣の阿部弥七郎正豊に斬殺された(「守山崩れ」)時に弥七郎を斬ってもいる。
人には何かを惹きつけるということがあるのだろうか。
(東京都中野区)

江戸東京

This page is powered by Blogger. Isn't yours?