日曜日, 12月 26, 2004

天平の美 

天平の甍と呼ばれる奈良・唐招提寺の金堂の解体修理で天応元(781)年伐採の桧(ひのき)が見つかったと奈良県教育委員会が発表した。
781年というと、白壁王と呼ばれた高齢の光仁帝が息子の山部親王こと桓武帝に譲位して退位した年に当たる。光仁帝は、それまで続いた天武帝系の血筋が絶えたために、かつて皇統を争った天智系から擁立された天皇。天武元(672)年に起こった天智帝の後継者、大友皇子(弘文帝[追号])と、天皇の実弟・大海人皇子(天武帝)の間の皇位継承権を巡る壬申の乱以降の流れが変わった時代でもある。
天智帝は親百済政権、一方の天武天皇は親新羅政権と言われ、この両統には朝鮮半島の情勢が色濃く反映している。7世紀の朝鮮半島は高句麗(コグリョ)、新羅(シルラ)、百済(ぺクチェ)の三国時代(B.C.57-A.D.676)。新羅は唐と連合を組み百済を攻撃。百済は660年に滅亡。これに対して、日本が派兵するも、百済・日本連合軍が663年に白村江の戦で敗れると多くの百済人が日本に亡命した。新羅は668年に高句麗も併呑し朝鮮半島を統一した。こうしたことを背景として、親百済を掲げていた天智帝の宮廷は危機感に揺れた。
そうした時代を経て、天武帝妃の第41代持統帝(在位686-697)の白鳳期から時代は天平期(7010-781)に入る。日本の首都が藤原京から平城京に遷都された時から長岡京へと遷される時までに当たる74年間の天平期は日本の仏教美術史が開花する時代。
その間に、
第42代 文武帝[在位697-707]
第43代 元明帝(草壁皇子妃) [在位707-715] ●
第44代 元正帝(文武帝皇姉) [在位715-724] ●
第45代 聖武帝(文武帝皇子) [在位724-749]
第46代 孝謙帝(聖武帝皇女) [在位749-758] ●
第47代 淳仁帝(天武帝皇子舎人親王皇子、淡路廃帝) [在位758-764]
第48代 称徳帝(孝謙帝重祚)[在位764-770] ●
の7代の天皇が即位したが、そのうち、●印を付けた4代が女帝。
これは面白い事実だと思う。
その中で、仏像も白鳳期の小振りなもの中心から大きなもの、かつ写実性の高い東大寺戒壇院四天王像や新薬師寺十二神将像などの作品が数々生み出された。乾漆像の東大寺法華堂不空羂索観音像、塑像の東大寺法華堂日光・月光菩薩像、東大寺法華堂執金剛神像、東大寺戒壇院四天王像、東大寺盧舎那大仏、興福寺阿修羅像、興福寺十大弟子像(乾漆像)、唐招提寺金堂盧舎那仏像(乾漆像)、新薬師寺十二神将像(塑像)、聖林寺十一面観音像(乾漆像)。
いづれも名品揃い。特色としては、天平期に続く平安京遷都の延暦13(794)年から遣唐使が廃止される寛平6(894)年までの弘仁・貞観期以降は仏像は木彫像が中心であることと、天平期以前の飛鳥期にも木彫像が中心であるのに対して天平期は脱活乾漆造(唐招提寺本尊盧舎邦仏像は時期としては例外)から木心乾漆造、そして木彫像一部乾漆造と乾漆造が中心だったこと。
絵画では正倉院鳥毛立女屏風に薬師寺吉祥天像などが知られている。
さて、鑑真和上(688-763)が榮叡と普照の要請で苦難の末に来日したのは天平勝宝5(753)年。孝謙帝の治世に当たる。先代の聖武帝は遣唐使による中国龍門の奉先寺盧舎邦大仏像の報国を耳にして東大寺盧舎邦大仏像の造像に踏み切ったと言われる。そうしたことを考えると、将に仏教美術が日本において花盛りの時。丁度、その隆盛時に鑑真和上は日本に多く仏教知識をもたらした。
この鑑真和上は新田部親王の旧宅を貰い受け唐招提寺を創建したと伝わる(759年)。ここに、760年頃に平城宮にあった東朝集殿を講堂として移築したのだという。
しかし、金堂に関しては明確な資料がないことから、国宝の本尊、盧舎那仏坐像の様式から創建時とする考え方から810年代とする考え方まで様々な考え方があった。
しかし、今回の奈良文化財研究所による金堂の垂木の年輪年代法での調査の結果が天応元(781)年となったことで、金堂の建立は天平末期の780年代ということが確実になった。


西の京へ(2004/11/10)
11月に吉野、奈良に「美と歴史」の旅を敢行!


[唐招提寺] 白く覆われている建物が修復中の金堂。

弟子の忍基がつくった鑑真和上像
この像は行信僧都像と並んで天平期の特徴である写実主義の頂点を極めた作品。
こうした天平写実主義は末期には東大寺戒壇院四天王像やバロック的と形容される新薬師寺十二神将像のように男性的、誇張的な表現に変化していく。

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