月曜日, 5月 09, 2005

思いやる気持ち 

 
ゴールデンウィークの東京湾はコククジラが人気者。7日には習志野で、8日は木更津で、ということだから、クジラ君は東京湾クルージングでも楽しんだのかもしれない。
このクジラ君、クジラの世界での戸籍上の名前は知る由もないが、種類としてはコククジラ科のコククジラ(Eschrichtius robustus)という。
かつては北半球に広く生息していたらしいが、現在では北米大陸の沿岸を中心に生活しているグループ(アメリカ系個体群)とオホーツク海から南シナ海までのアジアの海域を活動の場としているグループ(アジア系個体群)とがある。


クジラと言えば、日本では和歌山県の太地町が知られている。
太地で捕鯨が始まったのは1606(慶長11)年と伝わる。太地の和田忠兵衛頼元と泉州堺の伊右衛門、尾張は知多師崎の伝次の3人が語り合って、突き取り捕鯨法を始めたのが最初だとされている。太地の人だけではなく、他の地方の人が加わっているというのが興味深い。
それも、決して太地から近いとは言えない。同じ領内という訳でもない。陸上で考えるとかなりの距離になるだろう。
船を交通手段としたと考えると、こうした交流は、それほど珍しいことではなかったのだろうか。
そう言えば、四国の阿波は、房総の安房と関係があるし、紀伊半島にも勝浦があるし、房総にも勝浦がある。
もっとも、和泉、紀州、尾張の三者で始まった捕鯨は技術的な課題のために、すぎに廃れたのだという。
本格的な捕鯨が始まったのは、太地の和田忠兵衛の子の代。
だから、捕鯨は太地の人々の手で実質的には始められたと言ってしまっても良い。と言い切ってしまいところだが、何と、その実質的に捕鯨を開始した、子の金右衛門頼照は、再び尾張の知多の小野崎浦から与平次という羽刺(銛打ち)を招いたという。
やはり、船による交流を考えないとならない。

ともあれ、こうして始まった太地の突き取り捕鯨の対象となったクジラの一つにコククジラがいた。最初の頃は、多くの人々がばらばらに捕鯨を行ったために、コクジラを含めたクジラが減少。
そこで、孫の角右衛門頼治が、太地七浦をまとめるとともに、突き取り捕鯨から網取り捕鯨法へと大転換し、捕鯨業の危機を乗り切った。
彼は紀州藩主徳川光貞から太地姓を許され、太地角右衛門として全国に名を馳せるようになる。

網取り捕鯨法の対象となったのはザトウクジラだったことからすると、この頃、17世紀後半までには日本近海ではコククジラがかなり減少していたのではないのかと考えられる。
一方、アメリカ系コクジラのほうは、ずっと下って、19世紀から20世紀前半に乱獲されている。捕鯨法の発達もあって、絶滅が危惧されるまでに至ったほど。この点は、太地でのコクジラの減少とは比較にはならない。
ただ、その後、1946年には捕鯨禁止となったことで絶滅を免れている。
アメリカでは1994年にコクジラを保護対象から外している。完全に絶滅の危険が去ったと見なされたわけだ。
その証拠に、増えすぎたことで餌不足に陥ったコクジラ約350頭が打ち上げられるという事件が1999年に起きている。

こうした状況はアジア系でも同じと考えられ、2000年にケニアで開催された第11回ワシントン条約締結国会議(COP11)では、日本政府は北西太平洋のミンククジラとともに、北東太平洋のコクジラの国際取引解禁を提案している。
但し、北米沿岸ではホエールウォッチングなどの主役を務めるコクジラ。増えたとしても、それだけで即捕鯨しても良いという具合には国際世論は動かない。日本政府の提案も結局否決。

獲ることを許すかどうかに関しては、様々な背景から、様々な意見がある。
しかし、コクジラの生態系に何かが起きているらしいことは、1999年の事件でも分かる。
日本の近くでも、ロシアのサハリンで行われているサハリン?からI?IXの石油・天然ガス開発(サハリン?とサハリン?は進行中)がコクジラの生態系に大きな影響を及ぼすことが心配されている。

ゴールデンウィークの主役となった東京湾のコクジラがどういう原因で東京湾に現れたかは分からない。
ひょっとすると、興味を持って立ち寄っただけかもしれない。

そうだったとしても、少し気になる。

捕鯨の町、太地町でも梶取崎公園に「くじら供養碑」を建て供養を行っている。東京の品川にも供養するための神社がある。

生きていくために、他の動物の命を奪うことが不可避の場合がある。
だからこそ、思いやる気持ちを持つことが大切なのだと思う。

金子みすゞの「おさかな」の詩の中の

うみの さかなは かわいそう

を思い出しつつ、

うし は それでもかわいそう

と思う気持ちを持ちつづけたい。

生きてることは つらいもの
生きてくうえでは 苦しみを 伴わずには いられない
生きとし生けるものたちを
その輝ける営(いとな)みを 断ち切ることで 生きている
断ち切らずには 生きられぬ

それでもね 生きてることは 素晴らしい
ほかとつながり 持てるから
みんなと 感動できるから
その素晴らしさは 苦しみを
避けて通れぬ 悲しみを
何10倍にも 上回る

喜びの 生きてて分かる 嬉(うれ)しさの
底には 確かに 悲しみが 
そこには 痛みがともに 生きている


<<一言主>>
○音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)はドイツ中部のアイゼナハ(Eisenach)の出身。

○アイゼナハ(Eisenach)はドイツ、チューリンゲン州(Bundesland Thueringen)西端の工業都市。

○「愛国駅」は北海道帯広市愛国町にあった国鉄広尾線の駅。

○「愛国駅」は1929(昭和4)年11月2日開業。

○「愛国駅」は戦前の開業。しかし、ブレークしたのは1974(昭和49)年。幸福駅行き乗車券が爆発的に売れ300万枚を突破した。

○1987(昭和62)年2月1日の広尾線廃止をもって「愛国駅」の歴史は終わった。しかし、愛を願う気持ちには終わりはないということで駅舎は残されている。

○アポロコンピュータ社は1980年の創業。商用エンジニアリング ワークステーションではSUNよりも先行していたが、Hewlett-Packard社によって1989年に買収され幕を降ろした。

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