火曜日, 4月 26, 2005

最後の「u]の音が気になる 

 こんなことを気にするのは自分だけかもしれない。文章を書いていると語尾がとても気になる。
書き終わった後で書いた文章の語尾だけ見ると「です」のオンパレード。こうなると、口に出して読上げた時に滑らかではないような気がする。
気になり始めたのは、おそらく、高校の時に古文の授業を受けてからだと思う。必ずということはないけれど、古文の場合、いろいろな語尾が使われている。明治時代の文章もしかり。更に言うと、現代の作家の文章もしかり。
ところが、自分が文章を書くと、無闇矢鱈に「です」が多くなる。古文の授業で自分の文章の稚拙さに気付いたというところだろう。
何を隠そう、まぁ、隠すまでもないが、大学に入る頃までは小説家になりたいと考えていた。拙い短編もノートに書きなぐっていた記憶がある。幸いにも、ノートは残っていないために、読み返すことで赤面することもない。
書かなくなったのは、自分の文章が滑らかではないという思いが深まったからに他ならない。
そういう次第で、「です」が気になる。
この「です」、辞書的に整理すると、

○です [助動詞]名詞などの後ろに付いて、丁寧な断定を表す。「だ」「である」の丁寧語。

ということになる。
問題は、この「です」が今のような使われ方をし始めたのは、どうやら、明治時代に入ってかららしいということ。
今のようなというのは、今のように多用されるようになったのは、という意味。
もちろん、それ以前にも使われていなかった訳ではない。意外に歴史がある。
例えば、鎌倉時代に後深草院二条(1258[正嘉2]-1306[徳治元])が書いた日記文学『とはずがたり』の中に次のようなくだりがある。

ことさら物も申さで候ひしかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と御所に仰せられしかば

意味は、とりたてて何も申し上げないでいたら、院が「自分一代だけではなくて、子孫に至るまで琵琶は止めると深く八幡宮に誓ったそうですから」と仰せられる。

この中で、「で候」という部分。この部分が、後の「です」になったとされている。
一つの説ではある。
丁度、「?です」の「で」が省略されて「?す」という具合に、しばしば体育会系の人々の間で用いられるのと同じということなのかもしれない。
「?です」が省略された「?す」が今の時代ではある種特殊な限られた範囲で使われるのと同じことが「?です」でもあったようである。

江戸時代では遊郭などで、明治に入って一部の人だけではなく、普通に使われるようになったらしい。
もとより、様々な説があるわけで一定しない。

「ら」抜き言葉が、実は日本語の変遷の大きな流れを受けているというようなことと合わせて考えると、かつては遊郭などで用いられてきた「です」を昼間から使っている自分は「ら」抜き言葉がどうと言えなくなってしまう。

言葉というものは奥が深い。

<<一言主>>
○暇 [名詞]ひま / 閑とも。他人に拘束されない時間。または、自分自身が決めた取り決めに拘束されない時間。

○瞽女 [名詞]ごぜ / 静御前などというように用いられる「御前」が訛ったものという。室町時代に盲目の女性の鼓打ち芸人を瞽女と呼んだのが始まり。戦前までは新潟に多く見られ、越後瞽女と言われ三味線に合わせて唄った。2005年4月25日に105歳で亡くなった小林ハルさんは最後の越後瞽女とされている。

○が [古語/名詞]坂のような傾斜した地形。

○こ [古語/名詞]狭まった地。あるいは小川の河口。

○空閑 [固有名詞]中国の漢帝国の王室一族である劉氏の流れを汲むと伝える肥前の氏族。より直接的には肥前武田氏の流れという。古賀に同じか。

○休暇 [名詞]会社などの休み。または、会社としては営業しているが、従業員が会社の上司や同僚の許可を得て休むこと。日本で最初の週休2日制は1962(昭和37)年のキヤノンで導入された。

○制度 [名詞]せいど / 大小の社会の構造を維持するために作られた仕組み。強制力のあるものと任意的であり緩やかなものがある。
また、明示的なものと暗黙のものとがある。いづれにしても、所属員(メンバー)が多数の同意を得ることなく、これを破ったり無視する行動に出ると、明示的あるいは暗黙の制裁が加えられる。

○回転運転 [名詞]かいてん_うんてん / JR西日本で定められている、ダイヤに遅れが出た場合に、「許された速度の範囲内で遅れの回復に努めること」を意味する車両運転作業要領。

○取り戻す [動サ五(四)]とりもど_す / 一度は失ったものを再び自分の手元に置くこと。あるいは一度は失ってしまった事象の埋め合わせをすること。
「いつもより速度が出ている感じがした。遅れを取り戻そうとしたのではないか」2005年4月25日に発生したJR西日本福知山線脱線事故(26日時点死者73名)の事故に関する車掌の言葉。
○「肥薩線列車退行事故」 1945年8月22日に肥薩線吉松・真幸間のトンネル内で勾配を登りきれなくなった電車が乗客の窒息を避けるために後退。下車していた乗客を次々に撥ねる。死者49名。

○「八高線列車正面衝突事故」 1945年8月24日に八高線の小宮・拝島間の多摩川橋梁上で下り列車と上り列車正面衝突。死者は104とも105名とも言われ凄惨を極めた。2001年、多摩川から当時の事故車両の車輪が見つかった。
○「中央線笹子駅激突事故」 1945年9月6日、中央線笹子駅で電車が暴走。車両止激突。死者60人。
○「八高線列車脱線転覆事故」 1947年2月25日、八高線東飯能・高麗川間で八王子発の下り普通列車が脱線。死者184名。
○「近鉄奈良線花園駅列車追突事故」 1948年3月31日、死者49名。
○「桜木町事故」 1951年4月24日、横浜・桜木町間で桜木町行列車火災により死者106名。
○「常磐線三河島駅二重衝突事故」 1962年5月3日、常磐線三河島駅近くで脱線、衝突により160人犠牲。
○「横須賀線鶴見事故」 1963年11月9日、脱線していた貨車に横須賀線の列車が上下方向から衝突。死者161名。
○「北陸線北陸トンネル列車火災事故」 1972年11月6日、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き急行列車「きたぐに」の食堂車から延焼。死者30名。
○「信楽高原鉄道事故」 1991年5月14日、JR列車と信楽高原鉄道車両が正面衝突。死者42名。

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