月曜日, 4月 18, 2005

道産子の起源 

 北海道の白老町でダンヅケが再現されたという。ダンヅケとは何か。ダンヅケというのは馬の背中に荷物を何段も積み重ねて運ぶことだという。
再現を行ったのは仙台藩白老元陣屋資料館。ダンヅケは昭和初期まで見られたという。
私の父方の田舎にも馬がいた。馬といってもサラブレッドではない。そもそも、道南の牧場ではなく、道北の寒さが一段と激しい農村。
という次第で、ずんぐりとした道産子。
ダンヅケを担ったのも道産子。
日本に8種いるという在来馬の一種。
他の在来馬には、明治時代以前の日本の代表馬の木曽馬と野間馬、御崎馬、対馬の対州馬、宝島のトカラ馬、それから沖縄の宮古馬と与那国馬。
松山藩が野間郡の農家に委託して軍馬を飼育させたのが野間馬。
御崎馬というのは、高鍋藩秋月家が、7ヵ所の藩営牧場で飼育した馬。その7ヵ所の牧場のうち都井村御崎牧で飼育されたもの。
在来種というが、日本列島にはもともとは馬はいなかったと考えられている。
縄文から弥生時代にかけて、中央アジアのタルパン系高原馬が改良された小型の蒙古草原馬が日本に家畜馬として伝わって日本の在来種の基礎となったという。
タルパン系高原馬というのは汗血馬と呼ばれた名馬。
道産子以外の在来種は、ここまでで納得がいく。
それでは、道産子のもとになった馬達は、一体、いつ海を渡ったのだろうか。
12世紀の『今昔物語集』には、後三年の役(1083-1087年)で敗れた安倍頼時が海を渡って「海ノ北ニ幽(かすか)ニ見渡サルル地」に行ったものの騎兵に遭って逃げ帰ったという話が紹介されている。
ただ、東北から海を渡った地が北海道なのかどうかは今一つはっきりとはしない。
更に、時代を下ると、鎌倉時代には津軽の安東氏が蝦夷管領として北海道に進出、室町時代には安東氏が12の館を北海道に築いていたことが分かっている。
このうちの一つが40万枚もの大量の中国銭をおさめた越前焼や能登の珠洲焼の甕が複数出土した「志苔館(しのりだて)」。
上野国の武士、小林重弘が築いたもので、1457(長禄元)年にコシャマインの乱で最初に攻め落とされた館。初代の小林重弘の孫の館主小林良景は討ち死に。この乱を平定したのが武田信広。
安藤氏の部将で、渡島半島西部の豪族蠣崎氏の聟となることで勢力を不動にし、後の松前氏の祖先となった人物。
という経緯からすると、この乱の以前に既に相当数の内地の人々が北海道に渡っていたと思われるから、15世紀頃には東北地方から馬が持ち込まれたのではないのだろうか。


<<一言主>>
○アインシュタインは宇宙は秩序正しく予測可能と考えた。一方、素粒子のレベルでは確実なものはなく結果の確率の予測が出来るだけだとボーアは考えた。

○1930年代、量子力学は宇宙を構成する力は重力(G)と電磁気力(EM)だけでなく、強い力(S)と弱い力(W)の4つの力からなることを明らかにした。

○1945年、原子爆弾の実験によって、原子核内部で陽子と中性子を結び付けていた「強い力(S)」が原子核を分裂させることで人工的に放出された。

○放射能を生むのは「弱い力(W)」。

○量子力学は重力に関しては黙して語らない。

○1916年、ドイツのカール・シュヴァルツシルトはブラックホールの存在を予測した。彼は第一次世界大戦中の前線で一般相対性理論から巨大な重力を持つ領域があるとしたのだった。

○膨大な重力が小さな点に押し込められたブラックホールの内部構造を解明するには、小さな領域を説明する量子力学と大きな領域を説明する一般相対性理論を統一して取り扱う必要がある。

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