土曜日, 4月 09, 2005

梅安を想って桜に出会う 

五反田の雉子神社の桜。この神社、中原街道に面しビルの下の部分に収まるような形で鎮座している。
街道は架橋のようになっていて、丁度、小高い丘の入り口に当たる。この坂を相生坂という。
JR山手線の五反田の駅から少し歩いたところ。離れてはいるのだけれど、駅前が見えそうで見えないといった程の距離。
それでも、駅前の喧騒はここには無い。
神社の歴史は地域の歴史の鏡とも言える。地域の人々の集うところが神社であることが多い。周辺に住む多くの人々が幅広く集まる。そのために、神社は周辺の環境、風景が変化するよりも比較的緩やかに進む。
雉子神社は(平成6年から)外見こそビルに包まれているが、その名は徳川家光の故事に由来するという。何でも、家光が鷹狩の際に一羽の白い雉が境内に飛び入ったことからの命名とか。
もちろん、神社の歴史は、それよりも古く、かつては荏原宮、文明年間(1469-87)には大鳥明神山神社と呼ばれていたという。
雉の名は家光に由来するというが、日本武尊を祀っていることと関係しているのかもしれない。日本武尊は最期は白鳥(大鳥)になって飛び立ったという伝説を持つ。
大鳥であって雉ではないのであるが。
幕末の切絵図「品川・白金・目黒辺之絵図」によれば、この辺りは仙台藩下屋敷。その切絵図にも下屋敷の隣に雉子宮と記載がある。

池波正太郎著の『仕掛人・藤枝梅安』の主人公の梅安は、雉子宮の鳥居前の小川を隔てた南側に居を構えているという設定。

巻1「おんなころし」にこう記されている。

 品川台町の通りを南へ下った左手に、〔雉子(きじ)の宮〕の社(やしろ)がある。
 ものの本に、
「このあたりは北品川領、大崎という。慶長のころ、将軍家御放鷹(ごほうよう)のとき、この社へ雉子(きじ)一羽飛び入りたり。そのとき神名(しんめい)を問(と)われしに,このあたりの百姓たち、山神(やまのかみ)の祠(ほこら)なるよし申しければ、以後は雉子の宮と唱(とな)え申すべきむね、上意ありてより、かく号(なづ)くるという」
 などと、しるしてある。
 別当は宝塔(ほうとう)寺といい、丘の上の社殿を仰ぐ鳥居の右手に、その本堂があった。
 鍼医者・藤枝梅安の家は、この雉子の宮の鳥居前の小川をへだてた南側にある。わら屋根のちょっと風雅な構えの小さな家で、こんもりとした木立にかこまれていた。

目を凝らして見てみたが、はて、鳥居は昔のままの位置にあるのか、小川とはどこにあるのか残念ながら見つけることが叶わなかった。





<<一言主>>
○トマトやナスは種を地中に残して発芽する。

○スプラウトは種ごと持ち上げる形で発芽する。

○スプラウトの場合は双葉が栄養タンクになっている。

○ブロッコリの場合、種では3000mg/100gのガン抑制物質がスプラウトで100mg/100g。ブロッコリで食べると12mg/100g。

○植物にはファイトケミカルという虫が嫌がる毒を持っている。

○ファイトケミカルは細胞の中の液胞にある。

美と歴史博物館彦根屏風ブーシェを追加。

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