日曜日, 12月 05, 2004

鳥頭神社(吾妻 _ 上野) 

建久年間(1190)年に建立されたと伝えられる大国主命などを祀る吾妻大社の一つ。
また、京都安居院による「神道集」によると父・加若和利と母・子持御前との間に生まれた子供である鳥頭宮を祀ったとされる。
子持御前は伊勢国阿野津の長者阿野保明が伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘。この子持御前が成人して加若次郎和利(かわかのじろうかずさと)と結婚。夫婦二人で伊勢神宮へお礼参りをする。この時に、美しい子持御前を目にした伊勢国司が加若和利を謀反人として下野国へと流刑に処する。
子持御前は夫を救うため東国に向かう。途中、熱田と諏訪両大明神の助力を乞う。こうして、加若和利の伯父で元の上野国目代、藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再開した。
その後、諏訪大明神からの庇護のもと、子持山(子持御前)、嵩山(和利)、鳥頭宮、山代明神(藤原成次)、中山半手本明神(供の女房)、青山駒形明神(鳥頭宮の馬)、市城白専馬明神(馬を引く供奉人)を合わせて『吾妻七社明神』あるいは吾妻大社として祀られて地元の信仰を集めたという。
ともあれ、柳田国男の『名字の話』にある「遠戸と近戸は近世の語でいへば大手と搦手であって、関東地方では遠戸神・近戸神といふ神様が無数にある。奥羽の方へ行けば近戸森、遠戸森と変形する。伯爵藤堂家は近江から出た家であるが、この「トウド」もまた遠戸神の祭場のことである」を思い起こさずにはいられない鳥頭(とっとう)という名は興味をそそられる。



その由来はどうであれ、この社が古くから地元の人々の崇敬を集めていたであろうことは境内にある神代杉を見れば分かる。
神代杉もまた日本武尊命東征の折に植えられたとの伝説を持つ。
長い歴史の中で、寛保2(1742)年に草津へ向かう旅人が神代杉の虚で暖をとったために神代杉が痛み半枯れの状態となったとされている他、天明3(1783)年には浅間山の噴火による熱泥流によって被害を受けたという。この時に、龍徳寺住職円心が杉を全焼から守り抜いたと伝えられている。その後も多くの災難が神代杉を襲ったが、その度に住民が力を合わせて現在にその姿を伝えている。






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