木曜日, 5月 13, 2004

三河商人 

元気の良い会社と問われてすぐに頭に浮かぶのがトヨタ。いろいろな企業がツライときにトヨタのやり方に学ぼうとする。しかし、喉もと過ぎればであって少しばかり景気が上向いて業績が良くなると、トヨタに学ぼう運動は下火になってしまう。曰く、なんだ我が社もやれば出来るじゃないか。もうトヨタのやり方をムリムリやることはないな。
そう、ムリムリやっている。体質に合わないわけだ。それでも、やろうとするなら体質改善からしなければならないだろう。これは、大変だ。
で、トヨタの強みの源泉っていうのは何なのだろうと、ウラさんの呟き。
もともと、三河の岡崎周辺、つまりは徳川家康が出たところには三河商人と呼ばれる人々がいたという。日本の近代商業のルーツは近江商人だって言われている。
例えば、近江商人博物館のページによれば、伊藤忠商事、丸紅、トーメン、高島屋、大丸、西武それから日清紡、東洋紡に日本生命、ヤンマーが近江に起源を持っているという。そうそう、忘れてならないのは西武もそうだということ。彦根に足を伸ばしたときに西武のバスを多く目にした。
他にも富山商人、大阪商人、甲州商人というのが古くから知られている。そして、そこにルーツを持っている企業も現存している。しかし、早くからありとあらゆる資本を導入してありとあらゆる商業分野に進出するという『挺子遣いの利』こそが近江商人を江戸時代を通じて商人の王座に据えたとされる。
さて、三河商人を形つくるものとは何なのか?
しばしば、三河商人は『石橋を叩いても渡らず、他人を先に渡らせる』なんて言われるほどに商売に対しては慎重だと言われる。
そして、このことを裏付けるかのように、司馬遼太郎の『覇王の家』には三河出身の徳川家を『極端に自己保存の神経に過敏な性格』とし『その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった』というくだりがある。適切に三河気質を捉えているかどうかは別として、『極端に自己保存の神経に過敏な性格』というのは『石橋を叩いても渡らず、他人を先に渡らせる』に通じる。
また、江戸時代には三河周辺は天領は少なく多くの領地が入り組んでいて、広範囲に統一された政策が取られなかったために、領民は権威に頼ることなく自主独立しなければならなかったという。加えて、明治時代にも三河の地は徳川家との関係から冷遇されるという運命にあった。
このことが、更に一層三河気質を強める方向に働いたのではないだろうか。
その三河の気質の上に三河商人の気質がある。各個人が自立しようという基本的志向を持っている中では単純なる上位下達式や権威にしか裏付けられていない形での縛りは効果が薄い。何がしかの理念に共鳴して頑なまでに上も下も新入社員もベテランも共鳴して働く。この辺りがミソなのではないのかなどとも考えをめぐらせて見る。
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