水曜日, 3月 03, 2004

鎌倉五山 

「土曜日に鎌倉に行ってきたんだけど。結構、人がいたよ。『やぐら』を見るという催しがあったみたいだから、そのせいかも」
「五山巡り?
鎌倉の五山と言ったら、第1位が建長寺、第2位が円覚寺、それから第3位が寿福寺、第4位が浄智寺、そして第5位が浄妙寺ね。
対をなしている京都五山は室町時代に定められた。だけど、鎌倉の五山は室町時代以前の鎌倉時代の建長3(1251)年に定められているようだね」
「そうだね。
それに、浄妙寺の前身が足利義兼が建てた真言宗極楽寺である他は北条得宗家が関係している寺だね。それに、浄妙寺も後に真言宗から臨済宗になっているからみんな禅宗の寺。これは、如何にも武士らしいと言える。
建長寺は北条時頼が宋の蘭溪道隆を迎えて径山万寿寺を模範として建長5(1253)年に建てられている。万寿寺を模範とはしたと言われているけれども、日本独自の要素も加えられているね。万寿寺の様式とは異なったものになった背景には建長寺が建立された谷地の地形もあるんだろう」
「円覚寺は北条時宗によるものね。こちらも宗の無学祖元を招いて建立している。こちらは弘安5(1282)年。位置としては建長寺のすぐ裏ということになるけれども、円覚寺が建立されたところは建長寺の地形よりも険しいために斜面に伽藍が並ぶような形になっているわね」
「そして、その円覚寺から線路を渡ったところにあるのが寿福寺と浄智寺。
寿福寺は北條政子がかの栄西を招いて建立した寺ね。お茶と臨済宗を日本に伝えた栄西さん。そのほぼ隣りにあるのが北条師時による浄智寺。
それぞれ、盛時には塔頭を14寺院、11寺院数えたというけれども残念ながら今は昔となってしまっている」
「鎌倉幕府滅亡時に新田義貞が鎌倉に攻め入った折には、これらの寺々は兵火を逃れたと考えられているけれども、その後の南北朝から室町期における度重なる兵乱で被害にあったからね」
「ところで五山制度の由来って知っている?」
「聞きかじっただけだけど、インドの五精舎、十塔所に因んで南宋で制定されたものが、日本に輸入されたのよね。
当時、南宋はモンゴル帝国などの圧迫を受けていたということもあったのだろうけど、多くの名僧が海を渡って日本に来ている。その時に、一緒に大工も日本に来ていたらしくて日本の寺院建築にも大きなインパクトを与えたって。
それはおいておいて、鎌倉時代には既に鎌倉には五山の制度が整備されてそこの住職や大工職は鎌倉幕府の任命によるものだったのよね」
「南宋では史弥遠の案によって径山、霊隠、天童、浄慈、育王の五山が定められたわけだけど、インドの起源があったのではなくて中国古来の風水思想の影響が色濃いのではないのかとされているみたいだね」

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