土曜日, 2月 21, 2004

寺に想う 

「日本の伝統的な心の拠り所というと神道を思い浮かべることが多い。だけど、そうして思い浮かべておいて待てよと立ち止まる。
そういえば、明治時代の初めに行われた廃仏毀釈によって神社と仏教寺院が完全に分離される前までの1000年以上の間は神社と寺院は不可分一体で同じ敷地に仲良く同居していたわけだよね」
「そうね。お寺の境内に鎮守として神社があるというのは今でも見られる形よね。
それに、浅草寺の横に神社が鎮座していることからも分かるように、かつては同じ地にあった一対の神社とお寺を見つけるということも難しくないわね。
だから、神社とお寺というのを別々に考えるというのは日本の伝統にはなかった」
「無かったわけだけど、例えば江戸時代に本居宣長は古事記から仏教的なものを漉しとってしまって純粋神道的な世界を構築することで神道学を構築したんだね。これは平田篤胤も同じ」
「でも、そもそも古事記が編纂された藤原不比等の時代は、飛鳥寺こと法興寺、川原寺こと弘福寺、大官大寺、本薬師寺の飛鳥四大寺が平城京遷都(710年)に伴って次々と奈良に移すとともに再編を行った時期と重なるわね。
面白いことだけど、それまで地方の神社であった伊勢神宮に大きな地位が与えられたのも同じ時期に当たるのよ。
つまりは、純粋な神道学を構築した人々が聖典とした古事記の編纂自体に仏教思想が分離し難いほどに織り込まれている。旧神道と仏教との思想的合作となっていることが時代背景から窺える」
「奈良四大寺は大安寺と改称された大官大寺、薬師寺、そして移転に反対し、というより反抗して奈良に頑なに留まろうとした法興寺こと元興寺。それから、川原寺こと弘福寺から藤原氏が名跡を購入したと考えられてもいる藤原氏の氏寺である興福寺。こうした寺院は梅原氏によると神社と相似形を描いているとされている」
「まず、国家社寺として、アメテラスを祀る伊勢神宮と薬師如来を祀る薬師寺、釈迦如来を本尊とする大安寺が相似形を作る。
それから、これはもう奈良に足を踏み入れた人なら気づくことだけど、タケミカズチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメカミを祀る春日大社と藤原氏の氏寺である山階寺を引き継ぐ興福寺。これは隣接しているし、藤原氏の氏族社寺として相似形を形成している。
そして、国家社寺、藤原氏社寺の支配下に置かれた旧氏族社寺としてオオクニヌシを祀る出雲大社、タケミナカを祀る諏訪大社、オオモノヌシを祀る三輪大社と仏教を広めた蘇我氏の元興寺が相似形を作っている」
「こうして考えると寺院と神社を分けて考えるという未だに続いている二分法が如何に不自然なものかということが分かる。
寺社仏閣って言うくらいだからね。お寺廻りをする時は境内にある小さな神社にも目を留めるようにすると何かが見えてくるかも」

四国霊場巡礼も良いけれども、百寺巡礼というのも洒落ている。何よりも四国以外に住む人が地元近くの由緒ある寺院を再認識するとともに、更に近辺に足を伸ばす良い契機となるだろう。

五木寛之の百寺巡礼 ガイド版〈第3巻〉京都1 TRAVEL GUIDE BOOK
五木 寛之

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秩父巡礼(2002年9月29日)
秩父札所(1番-34番)

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