火曜日, 2月 17, 2004

イコンの歴史 

「外を歩いていたら、前にいる女の人が片方の足はスニーカー、もう片方はサンダルという非常に珍しいコーディネートをしていたよ。
ふと隣りを見ると、連れの男の人もどうやら片方だけサンダル。ジーンズで隠れてしまっているため確証を得ることは出来なかったけど。
これって流行なの。そうだとすると面白いね。
それとも、片方だけサンダルにするとスキップがし易いとか、万が一身に危険が迫ったときにサンダルを飛ばして応戦するとか」
「そんなの初めて聞いたけど。
それって本当?
何かの意味合いがあるのかな。それはそれとして、この画像を見て。イコンなんだけど」
「イコンというとフォーサイス(Frederick Forsyth)。ではなくて、東方正教会で用いられてきた板絵の聖画像。
そうそう、今、パソコンで良く使われるアイコンと同じ語源だね。象徴というか像っていう意味。そうか、あのカップルの片方サンダルも何かの象徴なのかもしれない」
「その片方サンダルはいいけど。
イコンって見ていると自然と心が癒されるような気がしてこない?函館でハリストス正教会を見学したことがあるけど、何ともいえない安らぎを覚えるような場所だったわ」
「そのイコンにも長い歴史があることは知っているよね。
特にキリスト教は偶像崇拝を禁止する旧約聖書の理念を受け継いでいる。そこから、イコンを否定するということもあった。イコンは偶像に他ならないという観点からね。しかし、イコンは決して偶像ではないんだ、形式的にはイコンに対して礼拝しているようであっても、それはイコンを信仰しているのではなくて、信仰しているのはあくまでもイコンに描かれた原像なんだということで決着が図られている」
「受肉の信仰という概念でしょ。そうした概念が東方教会で定着したというのはギリシア文明に源を発する思考方法が根底にあるんでしょうね。おそらく」
「そうした自然の流れでイコンが流行したと考えられているね。あまりにも流行しすぎた。キリスト教は原則として偶像崇拝を禁じているから、見逃すということは出来ない。そこで、726年に東ローマ皇帝レオン3世が遂にイコンの崇拝を禁止する。これが第1回イコノクラスム(Iconoclasm)、つまり聖画像破壊論争の発端となるんだよね」
「この禁止令のせいで、まるで明治維新後に起きた廃仏毀釈令の影響のようにイコンが次々と破壊されたというし、関係した文書類まで廃棄されてしまったらしいわね。だから、どうして、こういう禁止令が出たのかという点に関しては明確な証拠を見つけることは出来ないらしいのよね。東ローマ帝国はイスラム圏と国境を接していたというより、首都のすぐ近くまでイスラム圏であった関係で、厳格な偶像崇拝を禁止するイスラムの影響が背景としてあったとも言われている」
「それ以外にも首都コンスタンティノープルでの地震の原因が人々のイコンの崇拝に帰せられたとか、イコンの収入による修道院が裕福になったことへの非難が背景としてあったのだとかいう指摘がされているね」
「イコン破壊運動の中にあって、特に貧しい下層のキリスト教徒はそれでもイコンを捨てるということはしなかった。
そこで、754年に再びコンスタンチヌス5世によるイコノクラスム(Iconoclasm)が発令される。この時は、前回のイコノクラスムが不徹底だと考えられたのかイコンだけではなく聖遺物、聖人そして聖母への崇拝も禁止される」
「それでも、そうしたものを下層のキリスト教徒は捨てることをしなかった。民衆の支持を得ていた証左とも言える。
そうした動きを受けて、787年に開かれた第7回全地公会議、つまり第2回ニカイヤ(Nicaea)公会議で当時のレオ4世王妃イレーネ(Irene)によってイコン崇拝に理論的正当性が付与される。それがイコンを崇拝しているのではなくてイコンに表現されている原像を崇拝しているんだっていうことだね。
このイレーネは後に東ローマ皇帝になる人物であるから影響力があった」
「それで目出度し目出度しとはならなかったわよね。
偶像崇拝否定派からの揺り戻しがある。それがレオン5世(813-820)による再度のイコノクラスム(Iconoclasm)。その後、皇帝テオドラが再びイコンを容認してから以降、ようやく東方教会においてイコンが公認化されたわけよね」
「改めてイコンを見てみると歴史が滲み出ているね」



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イコンの道―ビザンティンからロシアへ
川又 一英
[参照]
14世紀のイコン
All Catholic Church Ecumenical Councils - All the Decrees

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