金曜日, 2月 13, 2004

承久の変が産んだ伝説 

「後鳥羽法皇(1180-1239)は後白河帝の死後親政を敷いて、その後も土御門帝、順徳帝、仲恭帝の3代24年間院政を執ったという実力派。そうした実力派が政治の実権を鎌倉に握られたままで満足出来るわけがない。
実際、実朝の暗殺後、政治の実権を再び京都の朝廷に戻すべく幕府に叛旗を翻す。だけど、御家人達の結束は固く京都勢は敗れ去ってしまう」
「承久の変だね。
勝った鎌倉幕府は仲恭帝を廃帝し、替わって後堀川帝を立てる。ここに、天皇の権威は崩れ去ったと言えるね。さらに、土御門上皇を土佐へ順徳帝を佐渡へ、後鳥羽法皇を隠岐に流した。皇族、しかも天皇位にあった人を流すというのだから凄まじい。でも、それは、それだけ朝廷の力を恐れていたということの裏返しとも言えるね。まぁ、朝廷そのものの力というよりは朝廷が関東以外の武家勢力によって担がれるということを恐れたということになるだろうけど」
「そうした鎌倉幕府の朝廷に対する恐れと権力から疎外された関東以外の武家勢力の思いが伝説を産んだとも言えるわね。
後鳥羽法皇にも順徳上皇にも通説とは異なる伝説が言い伝えられている。
後鳥羽法皇の場合、通説では大阪から海に出て姫路に上陸、播磨から船坂峠を越えて備前に入り院庄から美作、伯耆へと向かったとされる。だけど、実際は法皇を慕う地元武士による法皇の奪回を恐れて姫路ではなく尾道から三原付近に上陸。御調(みつぎ)、吉舎(きさ)を通って高野の功徳寺で冬を過ごして王貫峠(おうぬきだわ)を越えて出雲に至ったとされる。このルートはほぼ現在の国道184号線に沿うもので、このルート上には馬洗(ばせん)川、皇渡(おうわたり)、仮屋谷(かりやだに)、皇宇根(おううね)、仁賀(にか)などの法皇との関係を思わせる地名が残っているという点が根拠を与えているわ」
「ただ、その後鳥羽法皇の足跡が仁多で途絶えているというところが伝説が伝説で留まっていて通説にはならない所以なのかも。
順徳上皇に関しても、実は佐渡を阿部頼時の助けで抜け出して、越後、庄内、最上川、丹生川、そして御所山(船形山)に至ったという伝説があるね。
この場合にも御所という文字通りの地名が残っている」
「順徳上皇は最終的には正厳に移り寛元4(1246)年に崩御。御所神社に祀られたということになっている」
「いづれも通説では取り上げられることはない。だけど、その地方に長い間伝説として伝わってきたんだという事実は興味深いね」


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後鳥羽伝説殺人事件
内田 康夫 (著)

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