月曜日, 2月 02, 2004

「長崎の鐘」殺人事件 吉村 達也 (著) 

歴史物と言っても良い内容。もちろん、ミステリーというスパイスも効いている。
しかし、やはり歴史を頭に冠して歴史ミステリーと形容したくなる。
長崎が日本におけるキリスト教の聖地であるということは知っていた。知ってはいたけれども、そのその知識は表層的なものでしかなく、その知識の薄さを痛感した。
明治維新後もキリスト教徒への弾圧が継続され四番崩れと呼ばれる大弾圧が行われたという事実は人間の持つ残酷さを炙り出す。
さらに、いわゆる「隠れキリシタン」には、信教の自由が一様保証された後に正統なカトリックへと復帰した人々と数百年に及ぶ独自の土着的信仰形式を頑なに守り続けた人々と2通りの人々がいる(た)という事実。加えて、後者の土着的信仰形式を守る人々が周囲からの偏見に悩まされたということも事件の重要な鍵となっている。
ミステリーとして読むということも出来るが、著者が冒頭に大分を割いて長崎の暗部とも言える歴史背景を解説していることを重く見るべきだと思う。
次に長崎の地に足を踏み入れる時は、こうした事実を胸に長崎の街を見ようと考えている。

cover


ちなみに、「浦上四番崩れ」の経緯を本書などから纏めると概要以下のようになる。
永禄10(1567)年にキリスト教が長崎に伝わると2年後にはトードス・オス・サントス教会(現春徳寺)が建立される。その後、領主であった大村氏によって長崎はイエズス会へ寄進されるに及んで長崎は名実ともに日本におけるキリスト教の中心地となる。しかし、この状況は長く続かず、キリスト教に対して一定の理解を示した織田信長の後継者である豊臣秀吉は信長の方針を引き継がず、キリスト教の禁止令を出す。慶長元(1597)年には26人が大浦で処刑され、これ以降、日本のキリスト教徒は弾圧を潜り抜けて信仰を守ることを余儀なくされた。その間、天草の乱も起こり、元和の大殉教という危難もあった。また、弾圧は九州本島に留まらなかった。五島列島へは領主五島氏が領地開墾のために移民を要請したことで、多くのキリスト教徒が移住することになる。但し、この五島氏もキリスト教徒を手厚く保護したわけではなく、五島列島でも徳川幕府の意向を受けて度重なる弾圧が行われたという。そうした中で、キリスト教徒達は表面上は幕府に従い、浄土真宗に帰依しているように装いながらも、キリスト教を信仰し続けた。
その間に、宗教的指導者である神父や教会を持つことの出来なかった日本のキリスト教は日本的な変容を遂げていくということを余儀なくされていく。これが、いわゆる「隠れキリシタン」と呼ばれる信仰形態を指す。
このような弾圧の苦しい歴史の後、幕末に明かりが漸く差し込む。開国を迫る諸外国の圧力に負けて、諸外国による日本におけるキリスト教の限定的布教を認めたのである。この結果として、長崎に大浦天主堂が建設される。その大浦天主堂でプチジャン神父に対して浦上の「隠れキリシタン」が信仰を告白し「信徒発見」がなされた。時は慶応元(1865)年。こうした動きに続いて、「隠れキリシタン」は檀家として附属してきた聖徳寺と縁を切りキリスト教徒として晴れて生きることを目指す。ここに、「隠れキリシタン」は「隠れ」ではなくキリスト教徒として復活したのである。しかし、こうした動きに対して、歴史的教訓から「隠れる」ことを止めないキリスト教徒も少なからず存在した。その懸念は当り、幕府は2年後には大弾圧を開始する。時は幕末も幕末であり、明治維新の最中。そして、徳川幕府が倒された後もキリスト教徒の弾圧は明治新政府に引き継がれて行く。浦上のキリスト教住民に集団で強制連行し非人道的な扱いを行ったという。これに対して欧米列強の猛烈な抗議によって、弾圧は途上で終焉し住民の一部は浦上に帰ることが出来た。これが世に言う浦上四番崩れである。
この弾圧を目の当たりにした、その他の「隠れキリシタン」達が、政府を信用せず「隠れ」続ける道を選択したことは言うまでもないだろう。また、そうした人々の信仰形態が長い月日の中であまりにも変容していたために、カトリック側にも受け入れに対して躊躇があったことが不幸を加速させたということは否めない。
本書でも強調されているように、「隠れキリシタン」への言われ無き差別は戦後に至ってもしばらくは続いたという。

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