月曜日, 1月 19, 2004

砂の器 松本清張 

昨日からTBSでSMAPの中居氏主演による「砂の器」が始まった。
原作は社会派の巨匠松本清張の代表作。
もう何度か読んでいるが再び本棚から取り出してページを捲る。
主人公である和賀英良が何故、罪も無い元巡査を手に掛けなくてはいけなかったのか。しかも、ただの元巡査ではない。自分を気遣い、自分を我が子のように育ててくれた人である。どうして。
ページを捲る手が早まるのを抑えることは難しい。
「砂の器」は、本で何度も読んだ以外にもテレビでも何度か目にしている。
そのせいもあるのか、文字がどうしても映像に直結してしまう。
そう、まだ子供であった主人公がお遍路姿の父親と延々と海辺を歩くシーン。
そのシーンを思い浮かべるだけでも込み上げるものがある。
主人公の父親、本浦千代吉はなぜお遍路姿で幼き子供を連れて歩きつづけなければならなかったか。その理由は現代では分かるまいという人もいる。そして、ハンセン病に対する差別は国が正式に謝罪したことで決着したのだとも言う。しかし、本当なのだろうか。
松本清張が描いた、幼き頃の差別が時間とともに癒されることなく、主人公に残酷な「宿命」をもたらすという、そのプロット。そうした作られた差別は、差別を作った側の意図を大きく越えて人の人生を弄ぶ。
しかし、だからといって人を殺して良いということはない。
ましてや、元巡査は差別が酷かった時代に差別をしなかった人なのである。その善意が運命を狂わせていったのか。
今西刑事もそうである。彼は差別の側に身を置いているのではない。犯罪を憎んで、そのことだけで主人公へと繋がる糸を手繰り寄せていく。
そこに差別はない。しかし、差別は存在する。
いくらお遍路を続けようとも魂は癒されない。一度作られた差別は決して無くなることはないのか。
読み終わった後に深く考えさせられる一冊といえる。

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