月曜日, 12月 29, 2003

『日本のキリスト教』 古屋安雄著 

日本ではキリスト教人口は1%を超えない。西洋文化を我が物としてきた明治以降の日本においてキリスト教が市民権を持ち得なかった原因を、明治期、旧武士階級によって受容されたがゆえの厳格主義、知識人偏重としている。
なるほど、日本ではキリスト教は普及していない。
しかし、あの聖徳太子の周囲には景教すなわちキリスト教の影響が見られるという考え方もある。
聖徳太子こと厩戸皇子は、敏達天皇元(572)年に穴穂部間人皇女が厩戸に来たところで陣痛もなく生まれたとされている。厩(馬屋)で生まれたということは大いにキリストの生誕のシーンを連想させる。さらに、太子に景教の教えを伝えたとされる秦氏の建立による蚕社(延喜式内社木島神社)の三柱鳥居は三位一体を象徴するとも、太秦の広隆寺の国宝弥勒菩薩半跏思惟像の手の形は西方の大司教像の手の形に酷似し、やはり三位一体を示すものとも言われる。
そして、聖徳太子の手になる日本最初の憲法である十七条の憲法にさえ、その影響があるという。
久米邦武氏は、太子が晩年に随へ多くの僧を派遣した際に、キリスト教が日本に伝来してきたのではないかとの説を呈示している。
もっとも、このキリスト教は431年にエファソス公会議で解釈の違いから異端されたネストリウスによるキリスト教ネストリウス派。
活路を東方に求め、中国では唐の時代に流行した。
もし、この景教が日本に伝来し異説の通りだとすると、日本には確りとキリスト教が別の形で根付いたということになる。
ということは根付かなかったのは、明治維新後に入ってきた新たなキリスト教ということに....

cover


This page is powered by Blogger. Isn't yours?