マンテーニャ

Andrea Mantegna(1430/31-1506)。
パトヴァで美術収集家であり画家のスクァルチョーネの養子として、ドナテッロの作風に触れる。遠近法の活用と古典主義に特長を持つ代表作として『エレミターニ聖堂の壁画』(1448-57)、『サン・ゼーノの祭壇画』(1459)を挙げることが出来る。
ゴンザーガ家の招聘を受けマントヴァへ活動の場を移し(1460)、ソッティンスー(仰画法)と、日本では住吉慶二が『平治物語絵詞・信西巻』(13世紀中頃)で活用したことで知られる短縮画法を用いて『死せるキリスト』(1480頃)等を制作した。

ベッリーニ

Giovanni Bellini(1430頃-1516)。
ヴェネツィア盛期ルネサンスの立役者。マンテーニャの遠近法、ダ・メッシーナの油彩を学び、宗教画や肖像画を中心に手掛ける。
ティツィアーノ、ジョルジョーネを弟子として育成したことでも知られる。
『荒野の聖フランチェスコ』(1480-90)、『サン・ザッカリア』(1505)が代表作。

アルベルティ

Leon Battista Alberti(1404-1472)。
人文主義的藝術観を主張する『絵画論』、『彫刻論』、『建築論』の藝術論三部作を著す。
理論面での貢献のみならず、マントヴァのサン・フレディアーノ聖堂(1460)、サンタンドレア聖堂(1470)などの建築で自らの理論を建築家として実践した。
単に技巧に走るのではなく、人文主義を標榜し、建築は市民のためにあるとの理念は彼の生いたちに由来するものだろうか。アルベルティはフィレンツェから追放された名族アルベルティ家の血を引いている。

ポンペイ4様式

ポンペイ( Pompeii )の壁画などの様式の変遷のこと。
第1様式は漆喰装飾様式とも言われ、ローマの拡大に伴ってヘレニズム・ローマ文化の摂取を始める紀元前前3世紀末から紀元前80年頃までの様式であり、色大理石の壁面を漆喰によって装飾するという特徴を持つ。『ファウヌスの家 Casa del Fauno』が典型。
なお、ポンペイ第1様式と第2様式の区切りとされる紀元前80年にポンペイはローマの植民市となり自治権を獲得している。
第2様式は建築装飾を主とするため建築装飾様式とも呼ばれ、紀元前80年頃からアウグストゥス帝の統治時代にかけて見られた。秘儀荘( Villa dei Misteri )の「ポンペイの赤(rosso pompeiano )」と呼ばれる深い赤で描かれたフレスコ画『ディオニュソスの秘儀』や『オデュッセウスの風景画』が典型。このような独特の色彩の登場にはポンペイの自治権獲得が影響しているのかもしれない。
第3様式は、アウグストゥス時代後半から西暦62年にかけてで、エジプト美術の影響を受けた華麗な植物文を特徴とすることから華麗様式とも称される。
第4様式は第3様式の華麗な植物文が更に発展し複雑化したものと言えるため複雑様式と呼ばれ62からポンペイが79年)ベスビオ山大爆発により封印されるまでの様式である。

フラビアヌス朝

The Flavians (69-96 A.D.)。
ユリウス朝亡き後、ローマは混乱を極める。ユリウス朝最後の皇帝ネロを倒したのは事実上、元老院ではあったものの共和制の頃のように元老院自身がローマ帝国を統治するには領土が広大すぎたし、またローマ市民も元老院自身による統治を望まなかった。そうした中で政治的混乱を収拾したのがウェスパシアヌス帝 Vespasian (r. 69-79 A.D.)。彼はその帝位を2人の息子、ティトゥス帝Titus (r. 79-81 A.D.) と ドミティアヌス帝Domitian (r. 81-96 A.D.)に承継させる。
ここに、フラビアヌス家による安定した帝国経営が為されるかに思えた。しかし、皇帝の権威を高めようとするドミティアヌス帝の政策は元老院との衝突をもたらす。そうした政治的軋轢に身を晒し、暗殺の恐怖に怯えたドミティアヌス帝は次第に猜疑的になり、やがては本当に暗殺されるに至る。

ユリウス=クラウディウス朝

The Julio-Claudians。
カエサルの妹ユリアの娘を母とするガイウス・オクタウィウスが皇帝アウグストゥスAugustus (r. 27 B.C.-14 A.D.)として始めたカエサルの血を引く王統。 ティベリウス帝Tiberius (r. 14-37 A.D.)、カリグラ帝Gaius Germanicus/Caligula (r. 37-41 A.D.)、 クラウディウス帝Claudius (r. 41-54 A.D.)と続くも、ネロ帝 Nero (r. 54-68 A.D.)の時代に失政によって国内が混乱。68年3月にガリアで反乱が勃発。更に、イベリア半島のタラコネンシス属州総督ガルバが皇帝を宣言し、元老院がネロに対して退陣を求めたことにより、ネロ帝は自害。ここに、カエサル以来の名家による王統は断絶する。

ルーカ・デラ・ロッビア

Luca della Robbia(1400/01-1428)。
ナンニ・ディ・バンコ、ギベルティの工房で学び、フィレンツェ大聖堂の大理石彫刻『カントリーア』を制作。
ドナテッロの作風をも合わせて古典主義を確立する。しかし、関心は大理石彫刻の世界に留まることなく、マヨルカ陶器の技術を応用して大聖堂のテラコッタ『復活』、『昇天』を手掛ける。
彼の工房は多くの作品を産み出し、彼の死後も甥のアンドレアが工房を引き継ぎ、フィレンツェで長らく中心的地位を保った。

三十三間堂

正式には蓮華法院本堂。長寛2(1164)年に平清盛が後白河法皇のために御所である法住寺に隣接して建立。建長元(1249)年に大火で焼失、文永3(1266)年に後嵯峨帝により再建。湛慶作の熊野権現本地の千手観音坐像のほか多くの立像がある。平安後期に流行した千体御堂で唯一現存するもの。日本固有の建築様式、和様の鎌倉期の貴重な遺構として知られる。身舎(もや)は33間、庇を含めた桁行35間の一重入母屋造、向拝七間。本坊は天台宗門跡寺院の妙法院。