狩野芳崖

1828(文政11)年-1884(明治17)年。
長府藩の御用絵師の狩野晴皐の子として生まれる。江戸で木挽町狩野家勝川院雅信のもとで絵画修行に励み、橋本雅邦(1835-1908)と並ぶと称されるほどの才能を発揮。
しかし、明治維新とともに御用絵師としての地位を失い、困窮した生活を送る。
明治10年の50歳の時に、同じ長府藩出身で測量工学器の第一人者として東京で活躍していた藤島常興(1829-1898)を頼って再び上京するも病床に臥す。
絵に専念出来るようになるのは明治12年に橋本雅邦によって島津家に雇われてから。その後、「桜下勇駒図」「雪山暮景図」を第2回絵画共進会に出品。これがフェノロサと岡倉天心に見出されようやく世に出る。
明治12年のこと。
あまりにも長い道のりとなった。
時の首相の伊藤博文を説得し、美術学校創設に尽力したことで知られる。但し、本人は美術学校の開校を見ずにこの世を去った。