ジョット

Giotto di Bondone(1267?-1337)。
チマブーエの弟子といわれれ、イタリア・ルネサンスへと流れる様式の確立者。ローマ以前には、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画『旧約新約聖書の諸場面』『聖フランチェスコ』が知られる。
在ローマ時代には、アレーナ礼拝堂の壁画『聖ヨアキムと聖アンナ伝』『聖母伝』『キリスト伝』『最後の審判』を制作。活動の場をフィレンツェに移しオニッサンティ教会堂主祭壇に『荘厳の聖母』を、さらにはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂鐘堂建造に着手するも死去により未完となった。

ロマネスク(Romanesque)期

西ヨーロッパは9世紀から10世紀にかけて、北からノルマン人、東からマジャール人、南からサラセン人などの非キリスト教徒民族の侵入に悩まされるようになる。かつて、西ローマ帝国の滅亡の引き金を直接引いたゲルマン民族の打ち立てたメロビング王朝(486-751)、それを継ぐカロリング王朝(751-987)。その末裔である西フランク王国が同じゲルマンの血を引くノルマン人達の脅威に晒された。当時の西フランク王国には海軍はない。対するノルマン人達は河川を遡って攻めてくる。
やがて、ノルマン人に国家樹立の機運が高まる9世紀末から10世紀初めにかけて侵略は一段と激しさを増した。これに耐え切れなくなった西フランク王シャルルはノルマンの首領ロロに対してキリスト教改宗などを条件としてノルマンディーの地と妹を与える。
その後もノルマン人の西フランク王国への侵略は収まらなかったものの、ネウストリア辺境伯カペー家が防波堤となり、西フランク王国全土がノルマン人の支配下に置かれるという事態は回避される。そして、カペー家のユーグ=カペーがカロリング家断絶によってカペー王朝(987-1328)を樹立する。しかし、この時には王室に大きな力は既に無くなっており、ユーグ・カペーが細々とイル・ド・フランスの中だけで面目を保っていただけという有様。

このような中で大諸侯林立の封建制が出現。いわゆる中世が形成されていく。
そして、ノルマン人などの侵入がほぼ収まった11世紀後半から12世紀にかけて花開いたのがロマネスク文化。修道院復興において、バシリカ式を基本としつつも塔や聖堂を東西に配置するロマネスク式はトゥルーズのサン・セルナン大聖堂やいわゆる巡礼路聖堂に代表される見事な建築を現代に伝えている。修道院復興運動の主導したのは、ベネディクト修道院系クリュニー会とベルナルドゥスによるシトー会。この2つの会派がロマネスク美術を普及させる原動力となった。但し、シトー会はクリュニー会に比較すると質素な装飾を好んだと言える。

17世紀絵画の流れ(ボローニャ派)

17世紀のローマ絵画は、ミラノ出身のカラバッジョとボローニャ出身のカラッチを中心に形成されたと言える。
カラッチを中心にしたボローニャ派とでもいうべき人々は盛期ルネサンスのラファエロやティツィアーノの画風を大いに取り入れながらも、そうした偉大な先人の画風に縛られるということはなかった。つまり、いろいろな画家達の様々な画風を取捨選択して自分のものにした。つまみ食いと言ってしまえばそれまでだけど、それほど底が浅いものでは決してない。日本も和魂洋才の精神で経済発展を遂げたけど、それと同じ。
新しい流れは作ってはいるのだけれども、先人の画風に従っているという面、つまり古典主義的な面もあったために観衆は安心していることが出来たことになる。
この点はトンガッテいたカラバッジョとは異なる。

源氏物語絵巻「宿木」

国宝である「源氏物語絵巻」は10巻ないし20巻で1セットだったと考えられている。しかし、現在、確認されているのは4巻のみ。
そのうちの3巻は徳川美術館が所蔵している。
徳川美術館は名古屋市東区徳川町にある。尾張徳川家の家宝約1万3000点を所蔵している。
尾張家以外には阿波蜂須賀家に「鈴虫」「夕霧」「御法」を描く1巻が伝わっていた。後に、東京都上野毛にある東急グループ創設者五島慶太のコレクションを中心とする五島美術館が蜂須賀家から購入した。

薬師寺東塔


薬師寺は西暦680年、天武天皇9年に後に持統天皇として即位することになる皇后の病気平癒を願って天皇がもともとは藤原京に建立したという。
その後に、都が平城に移されたことによって、薬師寺も移転。現在に至る。
創建当時は東西両塔があったものの、火災によって西塔は焼失。昭和56年に再建された。
一方の西塔は幸いにも焼失を免れ、平城遷都当時の建築様式を現在に伝える。
この塔は六重塔のように見えるけれども、これは屋根の下の裳階(もこし)によるもので、実際は三重塔。ちなみに、屋根は天武帝を裳階(もこし)は持統帝を表現したものだという伝説がある。

El Greco(1541 - 1614)

「エル・グレコって呼ばれているけど、これは渾名。
まぁ、彼だけが特別ってわけじゃぁなくて、有名な画家の中には結構渾名が通り名になっているような人がいる。ふとっちょとかなんとか。
で、エル・グレコっていうのは、想像通り、ギリシャ人という意味。本当の名はDomenikos Theotokopoulos。
きちんと発音しろって?
それは、どうかご勘弁を。
生まれはクレタ。何か良いところで生まれたね。そこでずっと過ごしていて、ギリシャで活躍していたら、エル・グレコなんて呼ばれなかっただろうね。だって、ほら、そこいらじゅうがエル・グレコでしょ。
そう、生まれはギリシャなんだけど、活躍したのはスペインなんだ。暖かい所が好きなのかな。
ギリシャで学んでスペインで花開いて、後はどこにも行かなかったというわけではなくて、イタリアに学んでいる。お師匠さんはヴェニスにいたTitian。このイタリアでの修行時代にラファエロだとかミケランジェロなんかのイタリアルネサンスの様式の勉強を怠り無くやっている。
基礎はばっちり。
基礎はやっぱり大事だよ。先人が築いてくれた基礎の上に創造性ってものが重なっていく。
イタリアで研鑚を積んだエル・グレコは、故郷のギリシャに戻るのではなくて同じ地中海でもスペインに行く。トレドでいい仕事をする。
彼の肖像画は貴族に大受けした。大成功ってわけだ。
彼は、見るものが注目すべきところにスポットを当てるような個性的な画風を確立した。でも、それは、あまりにも個性的だった。というより、あまりにも、その時代にあっては進みすぎていたというべきかな。そういうわけで、彼の画風を継承するような流れというのは、すぐには生まれるということはなかった。
でも、彼の絵と現代絵画とを見比べると分かるよね。
そう、彼は現代絵画に最も影響を与えた人物の一人だってことは疑うべきもない」

太秦に関する佐伯説

明治時代、東京高等師範学校の佐伯好郎教授は「太秦」という地名がイエス・キリストのアラム語、シリア語読み「イシュ・マシャ」に由来すると唱えた。
今日に至るまで異説とされるも、弓月国から朝鮮半島を経て日本に渡ったという伝承を持つ泰氏の泰河勝が建てた太秦の広隆寺が太泰寺と呼ばれていたことは注目に値する。7世紀に唐の太宗皇帝の庇護を受けたキリスト教ネストリウス派(景教)の寺院がローマのシリアという意味の大泰寺と呼ばれた。
この大泰寺と太泰寺とは無関係なのか。

初期中世

初期キリスト教美術とゲルマン民族の抽象的文様的美術の対立と融合からなる。7世紀前半から11世紀初めが相当する。
古典復興が一つの基調であり、西ローマ帝国のカール大帝による「カロリング・ルネサンス」ではアーヘン宮廷礼拝堂やミュスタイアー、ナポリのサン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノなどの作品が知られる。それを継承する神聖ローマ帝国の「オットー・ルネサンス」では教会建築に双塔を配置する「ヴェストヴェルク(西構え)」が興り、ロマネスクやゴシックへの橋渡しとなった。

朝臣

三位以上の人の姓あるいは四位の人の名前の下に付ける敬称。
一般に『吾兄臣(あそおみ)』に由来するとされる。しかし、庶民とは異なり働かなくとも生活出来る『遊み』に由来するとも。

相李田次万呂

あいりのたつぐまろ。758(天平宝字2)年、東大寺金堂の『塑像四天王』、760(天平宝字4)年に同じく東大寺の『乾漆観音』の作者であることが記録に残る。
また、同じく法華堂の『四天王』四体と『金剛力士』ニ体などが、身長に対する頭部の比率が約10:1であること、顔幅と肩幅の比率が約1:3.3であること、太く短い首に共通点があるとして田次万呂の作品ではないかと田中教授により指摘されている。