三連板時代

ビザンティン美術において、843年のイコノクラスムが終わってから暫くは板絵イコンに代わって象牙などによるイコンが中心となる。象牙板イコンは当初は二連板が主流だったが、イコノクラスム以後は三連板が中心となっていく。
『アルバヴィルの三連板』(ルーブル美術館蔵)などのようなイコノクラスム以後の三連板イコンはキリスト教徒の礼拝の目的で制作されており、この辺りの事情が板絵イコンから象牙イコンへの交代の社会的背景としてあると考えられる。
有名なものに、大英博物館の『ボラディル三連板』、パリ国立図書館の『ロマノス三連板』がある。

イコノクラスム

ビザンティン帝国における726年から843年にかけての聖像破壊運動。背景にはキリスト教亜種と考えられたイスラム教の台頭がある。特に、636年には皇帝イラクリオスにより奪還されたエルサレムが陥落、674-678年、717-718年にはコンスタンティノポリスが包囲される。帝国領土が首都とテサロニキだけになる中、皇帝レオン3世が725年にイコノクラスムを開始。息子のコンスタンティノス5世も754年公会議で踏襲するが、イリニ女帝による787年の二ケア公会議で否定。更に、841年にレオン5世により再開。これをテオドラ女帝が843年に否定し終焉。

エル・グレコ

El Greco(1541-1614)。
クレタ島に生まれイコン作家として活躍した後、ヴェネチアに渡りルネサンスの様式を学ぶ。ヴェネチアではティツィアーノの下で修業したともされる。
その後、ローマなどを遍歴するが、1570年以降はフェリペ2世統治下のスペインで活躍する。
『聖衣剥奪』、『オルガス伯の埋葬』(1586)などの作品にはルネサンスの写実性はなく、マニエリスム一色に染め上げられてもおらず、神秘性が漂っているところはイコン作家としての来歴が影響しているのだろうか。

オム・アルカード

homme-arcade。美術史家アンリ・フォション(Henri Focillon)が『ロマネスク彫刻-形態の歴史を求めて』(辻佐保子訳、中央公論社1975)で名付けた、アーチの下に人物像を配するモティーフ/形体ユニット。
このモティーフは、西暦300年から600年にかけての初期キリスト教美術期に淵源を持ち、11世紀、ロマネスク期のフランスはトゥールーズのサン・セルナン聖堂周歩廊の『荘厳のキリストと2天使・使徒たち』に始まって広くロマネスク美術の特長をなした。

ラファエッロ

Raffaello Santi(1483-1520)。
ミケランジェロとともに盛期ルネサンスの双璧をなす。父ジョバンニ、そしてペルジーノに学び、その画風はバロックから新古典主義において見習うべきものの代表とされた。
フィレンツェでの活動の後に、教皇ユリウス二世の招きでローマに移り、『フォリーニョの聖母』、『シクストゥスの聖母』などを制作。ミケランジェロの流れを汲むマニエリスムに対して古典的な自然主義的様式を貫く。
また、『キリストの変容』のバロック的傾向は、16世紀末の新しきラファエッロ・カラッチ派にまで影響を及ぼした。

ゴシックの図像

「中世芸術は象徴的言語である。」
「カタコンベの時代から、キリスト教芸術は象徴によって語りかけてきた。一つの事物を示しながら、それによって別の事物を見させようとするのである。神学者ならこう言うだろう。聖書の文字の下に深い意味を隠し、自然自体が一つの教えとなることを欲した神を芸術家は手本にしなければならない、と」
エミール・マール著、田中仁彦ほか訳『ゴシックの図像学』国書刊行会.1998
中世ヨーロッパでは、世界は神の手による書籍と見なされた。中世美術が写実的な古典主義を離れ不可視な由縁がここにある。

ロマネスクとゴシック

ロマネスク建築ではフランス西部のサン・ピエール・ド・ラ・トゥール聖堂の南トランセプトのように、玄関口の彫刻は建物からは独立していない。そこにある円柱は確かに円柱の形をしているもののアーチを支えてはいない。装飾といえる。
これに対して、シュジュールによるシャルトル大聖堂のようなゴシック建築では、壁の凹面によって円柱を表現するのではなく、独立した要素として、しかも、円柱は取り外し可能な彫像を伴っている。
ここに、ギリシア・ローマ以来の丸彫彫刻の復活があり、ファン・エイクへと繋がる写実性の復活がある。