ボッティチェッリ

Sandro Botticelli(1444/45-1510)。フィレンツェにおいて、師匠フィリッポ・リッピとヴェロッキオの様式を融合し、独自の華麗な画風を打ちたてた。代表作としてメディチ家の肖像を描き込んだことで知られる『東方三博士の礼拝』(1475頃)やロレンツォ・デ・メディチ豪華王の要請によるローマのシスティーナ礼拝堂の壁画(1449-94)、そして有名な『ヴィーナスの誕生』(1484-86頃)がある。

ウッチェロ

Paolo Uccello(1397-1475)。ブロンズ彫刻家ギベルティ工房出身の画家。フィレンチェ大聖堂で『ホークウッド騎馬像』(1436)を制作。更に、サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の『大洪水』(1450頃)、メディチ宮の『サン・ロマーノの戦い』(1455頃、ウフィツィ美術館)において線遠近法を追求した。フィレンチェだけでなくパドヴァ、ウルビーノにも足跡を残す。

ギベルティ

Lorenzo Ghiberti(1378-1455)。ルネサンス幕開けの象徴とも言えるフィレンツェ洗礼堂のブロンズ扉のコンクールでブルネレスキを破った彫刻家。続く第三扉はミケランジェロによって『天国の門』と称された。その作風は国際ゴシックに連なるものがある。


ロマネスク

西ヨーロッパで11世紀から12世紀にかけて展開された様式。古典復興を第一としたカロリング朝(751-987,Caroling,Die Karolinger,Les Carolingiens)によるカロリング=ルネサンス、各国独自の様式が確立し始めた神聖ローマ帝国オットー朝((919-1024))期のオットー美術を受けた、半円形のアーチと壁の外側の装飾を特色とする様式。ビザンチン様式やイスラム美術の影響も認められる。ロマネスクというのは「ローマ風」という意味。この様式は、単なるローマ風を超えて13世紀のゴシック(gothique)様式へと繋がっていく。

ラファエロ前派

1848年にイギリスのロセッティ兄弟に、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ジェームズ・コリンソン、フレデリック・ジョージ・スティーヴンス、トマス・ウルナーの7名によって展開された芸術革新運動。
なぜ、ラファエロ前派かというと、彼らはラファエロの『キリストの変容』(1518-1520)に対して

「簡潔な真実に対する大げさな侮辱、使徒たちの仰々しいポーズ、救世主の精神性の欠如は糾弾に値する」 (『ラファエロ前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち』 著:ローランス・デ・カール、村上尚子訳)

とし、長らく画壇を捉えてきた絵画における因習的規範に決別し、ラファエロ以前の絵画に立ち戻って、目に見えるものをそのまま描こうとしたことに起因する。
こうした動きはフランスの印象派の動きに似ている。
但し、彼らはあくまでもラファエロ以前のイタリア初期ルネサンスに規範を求めた。
「P.R.B」(Pre-Raphaelite Brotherhood)という署名を用いたことでも知られる。
ラファエロ前派の統一的な活動は、1852年にトマス・ウールナーのオーストラリア移住、1853年のミレイのロイヤル・アカデミー準会員選出、更にはハントがイギリスを後にし、コリンスンとスティーヴンスが画壇を去って文壇へと活動の場を移したことから幕を下ろした。

フランチェスカ

Piero della Francesca(1415頃-1492)。
万能のルネサンス人らしく数学者にして画家。ヴェネツィアーノの助手としてフィレンツェで活躍した他、中部イタリアの諸都市に足跡を残す。
モンテフェルトロ家の庇護の下、ウルビーノ宮廷ではフィレンツェ美術と北方美術を融合させた『ブレラの祭壇画』(1470頃)、『ウルビーノ公夫婦像』(1474頃)を制作。
他の代表作として、『キリストの洗礼』(1450頃)、そしてアレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の『聖十字架伝説』(1452-66頃)。
『絵画の遠近法』という理論書を数学者として著してもいる。

グイド・レーニ

RENI, Guido(b. 1575, Calvenzano, d. 1642, Bologna)。
神話を主題とした絵画で知られるイタリアのボローニャ派の画家。
9歳から絵を学び始め、20歳の時に17世紀ボローニャ派の巨匠アンニバーレ・カラッチ(Annibale Carracci[1560-1609])のアカデミーに入門。
1600年頃のローマへの絵画修行の折りに、古代および最新のローマ美術に触れて、それらを自分の絵画における理想とした。
ラファエロを崇敬したけれども、実際にはカラヴァッジョの自然主義に影響されたことが『聖ペテロの磔刑(The Crucifixion of St Peter)』(the Vatican Gallery [1604])における明暗法(chiaroscuro)の使用方法に表れている。
その後も故郷のボローニャと絵画の範を見出したローマとの間を往復するという生活をし、カラッチの死後(1609)は古典派のリーダーとなっていく。
古典主義に忠実であり、生涯にわたってラファエロを模範とした彼の絵画は18世紀には持て囃されたが、19世紀にはその古典主義故にかつての賞賛を浴びるということはなかった。

アルバーニ・フランチェスコ

ALBANI, Francesco(b. 1578, Bologna, 1660, Bologna)。
17世紀のボローニャ派の画家。
ボローニャでマニエリストでフレミングの画家カルヴェールト(Denijs Calvaert)に学ぶ。その後に、17世紀ボローニャ派の巨匠アンニバーレ・カラッチ(Annibale Carracci[1560-1609])のアカデミー入り。カラッチの主要な弟子の一人となる。
さらに、当時の通例に従ってローマでも学び新古典主義を画風とした。神話や歴史に題材を求めるとともに、それらを牧歌的に描いたことで知られる。その画風故に、フランスではグイド・レーニ(Reni, Guido [1575-1642])、ル・ゲルシャン、ドミニカンとともに近代絵画の「四人の福音主義者」とされ、その画風はクロード・ロランなどに引き継がれて行く。

筆触分割/色彩分割

印象派の画家達が採用した、自然の色彩をキャンバス上に定着させる絵画技法。
太陽の光を構成する七色のプリズムを重視し、キャンバスの上にその七色を混ぜずに描くというもの。ルノワールが『陽光のなかの裸婦』における裸婦の肌の上に紫色を散らしたのは典型。絵の具は混ぜるとそれだけ暗い色になってしまうが、太陽の光は七色混ぜるとまばゆいばかりの白色になるという事実を忠実に表現しようとした結果と言える。
しかし、光の変化は明暗によってのみ表現出来るとする官学派や市民によって激しい批難が当初はなされた。

アンジュー家による移植

フランスはローマ教皇庁の要請を請け、南イタリアに進行。1266年に、ルイ9世の弟、アンジュー伯シャルルをナボリ王国の王位に据える。ナボリ王カルロ1世の誕生である。
カルロ1世はフランスからゴシック様式を南イタリアにもたらした。この外来的ゴシック様式がカルロ2世(在位1285-1309)の時代には同化し、ナボリ・アンジュー様式とでも言うべきナボリ大聖堂、サン・ドメニコ聖堂、サン・ピエトロ・ア・マイエッラ聖堂となって結実する。
また、フィレンツェやアッシジから多くの藝術家がナボリに招かれ美術様式の坩堝を形成した。