要光山観音寺(秩父21番)

 20番の岩之上堂から21番の観音寺へと至る道の途中に江戸時代からの道しるべがある。その道しるべに導かれて観音寺へと至る。
 秩父の札所には行基に纏わる話が数々ある。ここもまたその一つである。
観音寺はまたの名を「矢之堂」という。これは、行基がこの地に聖観音像を安置しようとして魑魅魍魎の妨害にあったときに、白馬の八幡神が神矢によって魑魅魍魎を打ち払ったと伝えられている。
 この「矢の根」は現在でも寺宝として大切にされている。
 訪れたとき、賽銭箱が見当たらなかった。聞けば賽銭箱は盗まれたという。
 残念なことだ。



秩父市大字寺尾2354

法王山岩之上堂(秩父20番)

 橋を超えて少し歩いたところにある。
橋の前に着いたときはもうすぐお昼という時間帯。ふと見ると端の入り口に食堂があるではないか。これはいいところにあるもんだ。というわけで、ドアに手をかけて、えいと力を込めるが、これが開かない。目を凝らすと休みとの案内。さらに、右を見るとなにやら食堂らしき建物。迷わず目指す。ところが、その食堂に見えたのはクリーニング店だった。まさに蜃気楼。
 仕方なく、古ぼけた自動販売機でジュースを購入し、しばし休憩。
橋を渡りきると橋の周りをくるくるとまわる形で車道の下を潜り抜けて岩之上堂のほうへ。
 このお寺、もともとは大伽藍を誇る願上寺という寺だったが、永禄の乱によって焼き払われた。その後、打田武左衛門慰政勝によって再興されたという。
 その方の御子孫かどうかは確かめなかったけれども、なるほど近くには内田という表札の掲げられた家を見ることが出来る。
 秩父の札所で唯一、開設以来の番付と所在地を保持する札所としても知られている。



秩父市大字寺尾2169

飛渕山竜石寺(秩父19番)

 天文台のある学校の中を突っ切って秩父往還を越える。
 そこには、龍石寺というが大きな一枚の岩の上に立っている。
本当に大きい。遠く宇宙を旅してきた隕石がそのまま地球に突き刺さったのではないかと思う。そういう一枚岩である。
 そこに、龍石寺は鎮座している。
本尊の千手観音であり、建物は秩父の札所では一番古いとされる。
 大きな一枚岩には龍が立ち上がったという伝説が残るがそれほどに面白き岩といえる。



秩父市大畑町15‐31

白道山神門寺(秩父18番)

 朝が早かったせいか途中でお腹が減る。
いい具合に焼き鳥の看板が目についた。一も二もなく2本買う。
のんびりとした旅にはこういう楽しみがある。
 のんびりしたせいなのか道に迷う。何回か道を聞いて辿り付く。
神門寺はその名前に「神」が冠せられている。これは、神門寺がかつては神社であったことによるという。神社は荒れるにまかされる状態になったものの、再興を願う村人達に寺建立のお告げがあったことにより神門寺が建立されたと伝えられる。



秩父市下宮地町5‐15

実正山定林寺(秩父17番)

 林太郎定元が主家から追放され、困窮の中で世を去り、残された子供が預けられたのがこの寺という。
 後に、主家が遺児を取立てて、林源太良元と名づけて、領地を授け御堂を建てて定林寺としたという。
 故に、この寺をまた林寺と呼ぶ。
 この17番までは案内板に沿って順調に歩くことができた。
 何故か案内板は平行する舗道ではなくて畑の中の草道を示してはいたが。
 ところが、ここから18番神門寺に向かうときに不覚にも道に迷った。地図に頼ったのがいけなかったのかもしれない。



埼玉県秩父市桜木町21‐3

無量山西光寺(秩父16番)

 境内に、四国八十八ヶ所霊場の諸仏をまつる回廊堂がある。
 また、寺に入る前の小道を右に向けて歩くと、江戸時代の道しるべがひっそりと自己主張している。



埼玉県秩父市中村町4-8-21

長岳山今宮坊(秩父14番)

 中世、武蔵国は甲斐武田と後北条との戦場となった。秩父の地も例外ではない。
 武田軍は後北条の支配する秩父を席巻し
焼け野原とした。これを「信玄焼」という。
 そのとき、現在の今宮坊は長岳山金剛寺と呼ばれていたが戦火を免れなかったこと他に同じであった。
 秩父の地に平和が訪れたときに、現在の
観音堂が建てられたという。
 今宮坊に向かう途中には今宮神社があり、徳川家康が見とれたという伝説が残っている。



埼玉県秩父市中町25‐12

旗下山慈眼寺(秩父13番)

 西武秩父の駅から仲見世を抜けて御花畑の駅の手前を曲がらずに真っ直ぐ歩くと慈眼寺がある。
 札所巡りはここから始めたが、随所に案内板があるのが助かった。
 その昔、日本武尊が東征の際に、この辺りに旗を立てたという。
 旗下山という山号はこれに由来する。
 また、慈眼寺のある辺りもまた旗の下と呼ばれている。

埼玉県秩父市東町26-7