栂尾山高山寺(京都)


 三尾の一番奥まった所にあるのが高山寺。このお寺、なんとアッシジの聖フランシスコ教会と兄弟教会。キリスト教と仏教の間にである。これは、高山寺を復興した明恵上人と聖フランシスコが同時代の人であり同じく清貧を貫いた人であったのが縁となったのだという。
 高山寺は初めは神願寺都賀尾坊という名称で弘仁5(814)年に開かれた。

 その後、後の第12代天台座主法性坊尊意僧正が修行するなど栄えたが、時代とともに寺勢が衰えた。それを平 重国の子である明恵上人が復興した。この復興には後鳥羽上皇を始め近衛、鷹司、西園寺家などの名門諸家が帰依し与力した。そして、神願寺都賀尾坊は後鳥羽上皇の院宣によって1206年に日出先照高山之寺という勅額を得て高山寺と名を変えた。特に、近衛、鷹司、西園寺家等の藤原氏一門の帰依を得たことの影響は少なくなく、また藤原一門も氏神である春日大社や氏寺と同格の扱いを以って寺を保護した。
 しかし、応仁の乱以降の兵乱によって多くを失った。江戸時代の寛永13(1636)年に永弁・秀融上人による再興、明治の再興を経て現在に至っている。

護法善神社(京都)


 西明寺を経て高山寺へと至る白雲橋の手前に鎮座するのが護法善神社。
 三尾の神護寺、西明寺、高山寺を紅葉の時期に訪れる人々は多い。しかし、三尾を結ぶ道を守る護法善神社の境内に足を踏み入れる人は少ない。
 とはいえ、確かにそこに鎮座し人々を見つめている。

尾山神社(金沢)

 金沢駅前からバスに乗って、近江町市場のある武蔵ヶ辻を経て香林坊へと至る途上に神門を見ることが出来る。
慶長4(1599)年に2代藩主利長によって、現在も寺院群で知られる卯辰山に創建されたのが始まり。名称も当初は卯辰八幡宮(現宇多須神社)だった。その後、明治6(1873)年に現在の地に移され、名前を尾山神社と改めた。
藩祖前田利家公を祀ってあるものの、徳川家康を東照大権現として祀る江戸幕府への配慮からか華やかという印象はない。
但し、この神社の神門は非常な存在感のオーラを放っている。
このように、洋風の門を持つ神社というのは全国でも、ここ尾山神社だけなのではないだろうか。神門は、金沢総区長であった長谷川準也と大塚志良兄弟を発起人として、明治8(1875)年にオランダ人技師ホルトマンの設計で、津田吉之助が建立したものであり3層造りとなっている。外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚く。
そのせいなのだろうか、神社という古式に則った建築様式をどちらかというと重んじる場所に、洋風の門を設けるという建築当時は画期的であったろう構図も、少しも嫌味なところがない。
思いを巡らすに、前田利家公も織田信長公に見出された頃、歌舞伎(傾き)者として知られたという。その歌舞伎具合も、また尾山神社の和洋の取り合わせ同様に意外としっくりとくるものだったのではあるまいか。

2003.6.28訪問。神門は重要文化財に指定されている。