天竜寺(京都)

 京福嵐山線の嵐山駅の直ぐ前にあるから、嵯峨野・嵐山観光の出発点といっていいだろう。
 しかし、今回は京福を利用せず、阪急で桂まで下がって嵐山に出向いた。理由は簡単。京福の嵐山駅に降り立つと、天竜寺を拝観してからわざわざ渡月橋を渡ることになる。嵯峨野の散策をゆるりと楽しみたいと考えていたので、再び渡月橋を引き返してくるよりはと考えた次第。

  この天竜寺、貞和元(1345)年に創建された古刹で、南禅寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と並んで室町幕府から京都五山の地位を与えられた由緒ある寺として知られている。後に、京都五山に相国寺が加えられて、南禅寺が別格とされると天竜寺は京都五山の第一位とされる。つまりは、それだけ室町幕府から手厚く処遇されたということを示している。
 しかし、不思議なことに、この天竜寺はその室町幕府と対立した後醍醐帝の流れである南朝大覚寺統と非常に所縁のある寺でもある。
 そう、この寺は室町幕府の創設者である足利高氏が建武の新政の主導者である後醍醐帝を供養するために建立したのだ。足利高氏と後醍醐帝は対立するに至ったが、初めは鎌倉幕府倒幕のために力を合わせた仲。そもそも、源氏の血を引き、また、鎌倉幕府を支配する北条家とも深い繋がりのある足利高氏が鎌倉に弓引く決心をしたのは、後醍醐帝の力によると言っても過言ではない。とはいえ、悲しいかな、高氏は諸国の武家の期待を一身に集める武家の棟梁たる源氏、拠って立つ基盤は鎌倉以来の武家による統治。一方の後醍醐帝は、王政復古を理想とする。心寄せ合いつつも、やがてあい争うようになるのは必定だった。
 このような背景の下で、後醍醐帝亡き後、高氏に後醍醐帝の供養を勧めたのが夢窓疎石。鎌倉の北条貞時を始め、室町幕府からも南朝側からも慕われた臨済宗の立役者である。彼は、天竜寺建立を勧めたが、その費用はいわゆる天竜寺船による元との貿易によって賄われた。そして、大覚寺統亀山離宮跡に完成したのが天竜寺なのだ。
 このようなゆわれを持つ天竜寺には、後醍醐帝御菩提塚、嵯峨天皇陵、亀山天皇陵がある。
 残念ながら、天竜寺は応仁の乱で全焼の憂き目に遭ったほか、ずっと下って幕末には長州藩の本陣が置かれたために、薩摩藩の攻撃により破壊されてしまった。しかし、その後の復興によって現在の姿を伝えている。

槇尾山西明寺(京都)


 神護寺を後にして、少し御茶屋で一服。「今年は残念ですなぁ」という会話がタクシーの運転手さんとお店のご主人との間で交わされている。
 やはり色づきは昨年(2002年)の鮮やかさに比べると、と言わざるを得ない。
 隣の神護寺は空海ゆかりの寺院として知られる。そして、この西明寺もまた空海にゆかりがある。すなわち、空海の高弟・智泉大徳が神護寺の別院として天長9年(832)に開いたのが西明寺。残念ながら、その後荒廃していたが、建治年間(1275-78)に和泉国槇尾山寺の我宝自性上人によって再興された。
 神護寺からの独立は後宇多帝より平等心王院の山号を正応3(1290)年に与えられてから。

 その伽藍も永禄年間(1558-70)に兵火によって灰燼と化す。しかし、空海の力とも言うべきだろうか。再び、明忍律師により再興される。
 なお、本堂は犬公方として知られる第5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院の寄進による元禄年間の再建。
 紅葉の時期に限って西側の緩やかな参道が開かれる。その先にひっそりと佇む寺の建物には、このような再建・再興の歴史が折り畳まれている。

 古義真言宗。

高雄山神護寺(京都)


 別格本山。
 嵯峨野の背後に位置する三尾の一つ神護寺。
ここは、紅葉が美しい京都の中でも指折りの名所。当日(2003年11月21日)は、京都駅から出るJR西日本の9:50のバスに乗り高雄に向かう。さすがに紅葉の季節とあってバスは立っている人が出るほど。今年(2003)の京都市内の紅葉は天候が不順であったこともあって今ひとつ。所々に緑が目立つ一方で、既に散り始めていた。
さて、50分ほどで神護寺に程近いバス停である高雄に到着。ここから下りの道を行く。ずっと下りではなく、橋を渡ると登りの階段が延々と続く。疲れた頃に視線の先に神護寺の楼門が建つ。なかなかの感激もの。紅葉を楽しみに来たはずが、既に紅葉の絶景を目にする前にここで満足の感有り。

 楼門を潜ると右側に朱塗りの囲いと、その奥に鐘楼が見えてくる。そもそも、この神護寺は前身を高雄山寺と言い、愛宕山白雲寺という愛宕神社の前身とともに建立された愛宕五坊の一つ。そして、これらの五坊を建立したのは神護景雲3(769)年の宇佐八幡神託事件で帝位簒奪を目論んだ道鏡の野心を打ち砕いた和気清麻呂。和気氏は河内国の神願寺を菩提寺としていたが、それを清麻呂が造営大夫を務めた平安京の奥にある高雄山寺に合わせて神護寺とした。正式に神願寺が高雄山寺と合わさり神護寺(神護国真言寺)となる以前から弘法大師空海が唐より帰国するとすぐに入山(809年)し14年間もの間住持を務めたことで知られるように和気氏の保護のもと真言宗の揺籃の地として名を馳せた。