稲毛神社(川崎_武蔵)

創建年代も創建の詳細も明らかではないものの古社であることは神木の大銀杏の樹齢が1000年ということから窺える。
当初は武甕槌神のみを祀っていた。しかし、武蔵国が動乱したために継体帝の皇子である第29代欽明帝(在位539-571)が幣帛・七串を奉じ、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀させるに至る。
まつろわぬ国、東国が如何に大和朝廷にとって重要であったかを示す一例と言える。
このように東国を抑える霊的拠点としての意味を持った稲毛神社は、後に武家からの信仰を集めることになる。
平安時代末期に、この地を治めた河崎冠者(秩父)基家は山王権現を勧請。以後、河崎山王社、堀之内山王権現、五社山王、三社宮などと呼ばれ地域の崇敬を集めた。
これは天台宗の神仏習合思想「山王一実神道」に基づくわけで興味深い。
鎌倉時代には将軍家の庇護を受け佐々木四郎高綱が社殿を造営したという。しかし、新田氏と縁があったことから室町時代には低い地位に甘んじなければならなくなる。
神仏習合の神社であったものの、戊辰戦争の折に有栖川宮熾仁親王が神仏分離に相応しくないという言葉によって、川崎大神稲毛神社と改称。長らく続いた神仏習合が廃絶された。その後、名称は川崎大神宮から稲毛神社へと変遷し現在に至っている。