勝手神社(吉野_大和)

静御前ゆかりの神社。
神仏習合のメッカ、吉野山の由の八社明神のひとつ。金峯山入り口にあることから別名を山口神社とも。
静御前は源 義経主従と別れて後、鎌倉軍の追っ手に捕まり、この神社の社殿の前で法楽の舞を舞ったとの伝説が伝わる。
この神社は背後に天女の伝説を残す袖振山がある。天智帝の治世の672年に大友皇子に対して叛旗を翻した大海人皇子(後の天武帝)が大海人皇子の琴の音色に応じて天女が舞いを舞って現れ大海人皇子の勝利を示したという。
静御前の舞に、天女の舞。この神社は舞に縁のあるということになる。
社殿は豊臣秀頼が慶長9(1604)年に改修、正保元(1644)年の焼失、翌年再建されるも明和4(1767)年に焼失。その後の再建。
吉野町の案内板に豊臣秀頼の名が豊富秀頼と豊富の所にルビを付して記してあるのが印象的。
大山祇神、木花咲耶姫命ほか三神を祀る。







吉水神社(吉野_大和)

白鳳年間に役行者によって創建された吉水院が前身。
神仏混交の色濃い僧坊だったものの神仏分離の嵐の中で明治8年に吉水神社として寺号を廃した。
文治元(1185)年には源 義経が静御前と主従を連れて鎌倉の追っ手から逃れて身を隠したとして知られる。更に、延元元(1336)年には後醍醐帝が京・花山院から逃れて行宮とした。それだけではない。文禄3(1594)年には豊臣秀吉が吉野の花見に際して本陣としたことでも知られている。
豊臣秀吉が花見の本陣としたことでも分かるように、ここは上千本、中千本の桜を眼下に納めることが出来るという。もちろん、私が行ったときは霧しか見ることは出来なかった。
境内奥の書院は重要文化財。
祭神として、後醍醐帝、楠 正成、吉水院宗信法印を祀る。









金峯山寺(吉野_大和)

修験道の開祖、役小角(634-)が7世紀末の白鳳年間に、蔵王権現を感得して開山。
蔵王権現は、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩の過去、現在、未来を掌る三尊が仮の姿として現れたもの。
今回、世界遺産に指定されたことを受けて特別開帳されている本尊の三像は三尊だが全て蔵王権現という珍しいもの。また、秘仏としては日本最大。


[国宝]金峯山寺仁王門
正平3(1348)年に高師直によって焼失するも康正元(1455)年に再建された重層入母屋造三間一戸瓦葺の門。
本堂である蔵王堂が南面しているが、仁王門は北西の方角に横を向く形で配置されている。つまり、仁王門を潜って鍵状に曲がって本堂に至ることになる。これは熊野から吉野へと入る順峯という参詣路に沿っているとのこと。


[県指定文化財]仁王像
昭和25(1950)年の解体修理の際に発見された胎内墨書銘から延元元(1338)年に大仏師康成らによって造られ、康正2(1456)年に彩色されたことが判明。
延元元(1338)年ということは、仁王像は高師直による兵火を免れたことになる。



[国宝]蔵王堂
ここに今回、特別開帳された本尊が安置されている。
その圧倒的な大きさ、威容を誇る青き肌は一生忘れることは出来ない。
さて、この蔵王堂の正式な名称は金峯山修験道総本山金峯山寺(きんぷせん)本堂蔵王堂という。
開祖、役小角の手によって創建されたと伝わるものの、天禄2(972)年、寛治7(1093)年、嘉禄元(1225)年、文永元(1264)年、そして、正平3(1348)年に焼失。特に正平3(1348)年の高師直による焼失は大打撃を与え康正元(1455)年まで再建されなかった。
その後も天正14(1586)年に焼失。現在の本堂は天正19(1591)年の再建。
とはいっても、34メートルもの高さを誇る本堂は東大寺大仏殿に匹敵する古建築。