安井金毘羅宮(京_祇園)



祇園の歌舞練場(元建仁寺塔頭福聚院)のすぐ南にあって崇徳帝、大物主命、源頼政を祀る神社。
天智帝の時代に藤原鎌足が藤寺を創始したのが起源。後に崇徳帝が藤寺を気に入り、寵妃烏丸殿を住まわせたのだという。崇徳上皇は保元の乱(1156)に敗れ讃岐に配流され薨去。
治承元(1177)年に藤寺を大円法師が訪れた際に亡き崇徳上皇を見かけ、これを後白河法皇の耳に入れる。
後白河法皇は、この報せを受けて、荒廃していた藤寺を光明院観勝寺として再興。時は建治年間(1275-77)。観勝寺も室町時代の応仁の乱に際して再び荒廃。
江戸時代の元禄8(1695)年に太秦安井の蓮華光院を移したことに伴って、鎮守社として崇徳帝と讃岐金刀比羅宮から勧請の大物主神、それに源頼政を祀る神社を建立。
明治維新の廃仏毀釈によって蓮華光院を廃して安井神社となり、その後に改称して現在に至っている。ちなみに、蓮華光院所縁の文化財は大覚寺に遷された。



崇徳帝(1119-1164)は鳥羽帝の第1皇子。但し、『古事談』によると、平 清盛と同じく祖父である白河帝の子としている。そのために、正式には父とされる鳥羽院との間で相克があった。鳥羽院は院政を敷き、子の近衛帝を擁立。近衛帝が薨去すると、子の重仁親王の即位を願う崇徳院を無視して、自分の子である後白河帝を擁立。更に、後白河帝の皇子の守仁親王(後の二条帝)が皇太子として即位するに及んで崇徳院の家系に皇統が戻る可能性が無くなる。
このような背景で、後白河帝の即位の翌年に鳥羽院が崩御すると一触即発の事態となる。
そして、崇徳院、後白河帝双方が軍勢を招集し武力衝突に至る(保元の乱)。
結局、崇徳帝は敗れ讃岐の松山(現、坂出)に配流。、舌先を食い切って、流れる血潮で
「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、その血で大乗経を書き、「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」と呪詛したとされる。
8年後の長寛2(1164)年に崩御し白峰に葬られた。
この死に関しても、『讃州府誌』によれば二条帝が派遣した讃岐の三木近保によって暗殺されたとされている。


[歌舞練場]
この東南に崇徳帝廟がある。

2004.3.14訪問。