底脱ノ井戸(鎌倉)


鎌倉の海蔵寺門前にある鎌倉十井の一つ。
鎌倉十井は、水戸黄門として知られる徳川光圀の手になる『鎌倉日記』を引き継いだ家臣の河井恒久による『新編鎌倉志』に記されている由緒ある井戸のこと。
この底脱ノ井の他に、棟立ノ井、瓶ノ井、甘露ノ井、鉄ノ井、泉ノ井、扇ノ井、星ノ井・銚子ノ井、六角ノ井がある。

秋田城介安達泰盛(陸奥太守平泰盛[1231-85])の娘で北條顕時(金沢;1248-1301)の千代能(無著如大)が夫の死後に無学祖元(仏光国師[1226-86])に師事し修行中にここへ水を汲みに来た時に水桶の底がすっぽり抜け、

千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらじ

と歌ったのが井戸の名の由来とも、

上杉家の娘が

賤の女が いただく桶の底ぬけて ひた身にかかる 有明の月

と歌ったのが名の謂われとも伝えられている。

2004.3.28訪問



上御霊神社(京)



早良親王こと崇道帝、吉備真備など13柱の神を祀る。丁度、現在の京都御所を挟んで南に鎮座する下御霊神社と対になって都の怨霊神を鎮めることで御所を守護する役割を担っている。
上御霊神社は延暦13(794)年の平安京遷都の際に当時、怨霊として怖れられていた八柱を祀ったことが始まり。明治時代にさらに五柱を加えて現在に至っている。
この地は、臨済宗相国寺派の大本山相国寺のすぐ北に位置し、かつては御霊の杜と呼ばれた地。応仁元(1467)年に応仁の乱の発端となった畠山政長と畠山義就との戦いが行われた地でもある。



2004/3/15

霊鹿山革堂行願寺(京)


れいゆうざんと読む。
宝永5(1708)年の大火で焼失するまでは一条大路にあり、大火の後に現在の地に遷って来た。
開祖は行円上人。上人は釈迦が苦行した時に鹿の革を身に着けいたという伝説に因んで、自ら鹿の皮を身に纏い革聖と呼ばれていたことから革堂の名があるという。
行円上人は寛永元(1004)年に一条北辺堂を復興し行願寺としたのが始まり。
当日、京都御所の見学の前に立ち寄ったので朝早かったが、西国霊場33ヵ所の19番札所ということもあって霊場廻りの人々がご詠歌を唱える姿があった。


2004/3/15