バロック

バロックの名前は1690年のフランスのフュルティエールの辞書からポルトガルの「歪んだ真珠」だとされている。アカデミーの美術の基準からは外れた美術様式としてヴェルフリンによってバロック美術という名前が冠せられたの17世紀のヨーロッパ美術。イタリア・ルネサンスは末期には複雑で難解な寓意を込めたマニエリスムへと変貌を遂げ、16世紀には創造性を失って形式のみの美へ重心を移してしまう。そして、この時代、1517年にマルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』によって、法王レオ10世(1475-1521)がサン=ピエトロ大聖堂再建のために発行した免罪符の批判を行い、プロテスタント運動がヨーロッパ全土へと拡大していく。危機感を強めたカトリック側はプロテスタント側が原点回帰から偶像崇拝を禁止したことに対抗して美術作品によって信仰の回復を目指していく。

こうした時代背景の中でイタリアのボローニャのアンニバーレ・カラッチを始めとするカラッチ一族が盛期ルネサンスの様式を踏襲しつつ更なる理想美の追求を行っていく。ローマのファルネーゼ宮、システィーナ礼拝堂で成果を挙げた一族は1580年代に地元のボローニャにアカデミーを創設しグイド・レニ(1575-1642)、ドメキニーノ(1581-1641)、アルバーニ(1578-1660)、グェルチーノ(1591-1666)らを生み出しボローニャ派と呼ばれるようになっていった。同時期にカラバッジョが出てカラバジェスキ派を形成するがボローニャ派ほどの勢いは無かった。

バロック美術にはもう一つの流れがある。それがスペインとスペインを宗主国としたネーデルラントの流れ。旧教国スペインではマニエリスムから次第に自然主義的な作品が好まれるようになっていき、バレンシア、セビリア、マドリッドなどの地方の独自色を色濃く反映した宗教画が制作されていった。特にセビリアはムリョーリョ(1618-82)とレアール(1622-90)の創設したアカデミーとともに中心地となった。ベラスケスはセビリアからマドリッドへと移り新しい都市で新たな境地を切り開いている。

スペイン領だったフランドルから新教国オランダが分離した後に残されたフランドル地方では宗教画と神話画を大きな特色とする美術が花開いた。この地方で活躍した画家にルーベンス(1577-1640)などがいる。

ちなみに、プロテスタント運動の原因となりバロックの間接的な生みの親となった法王レオ10世は、メディチ家がフィレンツェから追放された後、枢機卿として列強の力を結集して、フィレンツェを攻略してメディチ家を復帰させたという人物。

ルネサンスで明確に外界と対象を分かつように描かれた輪郭線は、バロックでは色彩の中に溶け込んでいる。ヴェルフリンがそう指摘したバロックはルネサンスと並ぶヨーロッパ美術の2大潮流と言える。