最上家親・義俊公墓

山形市鉄砲町にある最上家三代の菩提寺である光禅寺にある最上家親[1582-1617],義俊[1605-1632]の墓所.

家親は最上義光の二男で伊達政宗の従兄弟にあたる.最上家親は徳川家康の近侍として仕え一字を名に貰い受けた.この関係で兄の最上義康は父親の義光と不和になり,やがて,高野山への追放を言い渡され,その途上,戸井半左衛門によって襲撃され自刃している.

一連の騒動は義光側近の里見民部によるものと考えられている.義光は死に際し家親に里見一族の粛清を命じていたともされ,家親によって里見一族は粛清された.背後には豊臣方の策謀もあったと言われるが,大阪冬の陣に際しては親豊臣派であった弟の義親を討伐している.続く大阪夏の陣で江戸城留守居役を務めた2年後に山形城にて36歳で猿楽を鑑賞中に急病死.

家督を継いだのは嫡男の最上義俊.若年での藩主就任に家臣団が反発.家親の弟である山野辺義忠[1588-1665]の擁立を画策.英君である義光の死からわづかに3年しか経っていない.家老衆が義忠の擁立に動く中,松根備前守光広は幕府に対して,家老格の鮭延越前守と楯岡甲斐守が義忠の擁立を図って前藩主を毒殺したと訴え出た.酒井雅楽頭忠世は吟味の上で事実無根として松根備前守光広を柳川立花家へのお預け処分とした.

そして,町奉行島田弾正利正・米津勘兵衛由政を派遣し,山野辺・鮭延ら家老衆と義俊との調停を試みるも失敗.ここに,名門最上氏の近江大森への移封が決まり,事実上の改易が定まった.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















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