Dow Inc.
ダウ[Dow Inc.]は,アメリカ合衆国に本拠を置く大手化学メーカーであり,世界の化学産業における主要企業の一つである.同社の歴史は,1897年に化学者ハーバート・ヘンリー・ダウ[Herbert Henry Dow]によって設立されたダウ・ケミカル・カンパニー[The Dow Chemical Company]に遡る.ハーバート・ダウは,塩水から臭素を効率的に抽出する新技術を開発し,それをもとにミシガン州ミッドランドで事業を開始した.創業当初は主に産業用化学薬品の製造を手がけていたが,20世紀に入ると戦争や工業化の進展により,事業領域は急速に拡大した.
第一次世界大戦中,ダウ・ケミカルはドイツからの輸入が途絶えた染料や医薬品の代替品を国内で製造し,アメリカの戦時産業にとって不可欠な企業となった.その後も,同社は有機化学,プラスチック,農薬,合成ゴム,ポリマー,電子材料といった多岐にわたる分野に進出し,グローバルな化学メーカーとしての地位を確立していった.第二次世界大戦後には,ナパームの製造など軍需品に関与したことで社会的批判を受けたこともあるが,同時に,ポリエチレンやポリスチレン,ポリ塩化ビニルといった汎用樹脂の大量生産を可能にし,現代のプラスチック社会の基盤を築いた.
1970年代から1980年代にかけては,ベトナム戦争におけるエージェント・オレンジ製造への関与に関する訴訟問題や環境問題への対応が企業経営の重要課題となり,同社は事業ポートフォリオの見直しや,環境規制への順応,企業倫理の強化などに取り組んだ.また,1984年にインドのボパールで発生した化学工場事故は,化学業界全体に安全管理の厳格化を促す契機となったが,当該事故を引き起こしたのはユニオン・カーバイド社[Union Carbide Corporation]であり,ダウ・ケミカルが同社を買収したのは2001年のことである.したがって,事故そのものに対するダウの責任は直接的には問われていないが,買収後は一定の社会的批判や賠償問題に向き合う必要が生じた.
2000年代にはグローバル化とともに,積極的なM&A戦略を展開し,中でも2009年にはローム・アンド・ハース[Rohm and Haas]を約150億ドルで買収し,特殊化学分野への傾斜を強めた.この買収により,ダウはコモディティ化学品だけでなく,高付加価値材料の供給にも力を入れる戦略に転換した.
2013年から2014年にかけて,同社はかねてからのライバル企業であるデュポン[DuPont]との対等合併を検討し始め,2015年12月に正式合併を発表し,2017年9月にDowDuPontとして統合された.この合併は,当時の化学業界における最大級の再編の一つであり,総額約1800億ドルを超える巨大企業の誕生となった.しかし,DowDuPontは恒久的な統合を目的としたものではなく,当初から3分割を前提とする合併・再編モデルが取られていた.統合後,農業部門[Corteva農業科学事業部],特殊化学部門[新生DuPont],そして基礎化学・材料部門[新生Dow]に分離される計画であった.
2019年4月,ダウは正式にDowDuPontから分離・独立し,株式市場に再上場する形で新生ダウ[Dow Inc.]が誕生した.新生ダウは,伝統的な素材化学に特化し,特にポリエチレン,ポリウレタン,中間体・工業用化学品,コーティング材,建設・インフラ用材料,パッケージングソリューションといった産業材料を中心に事業を展開している.現在も本社は創業の地ミシガン州ミッドランドに所在しており,世界31か国で事業を展開している.従業員数は約36,000人[2024年12月31日時点]で,年間売上高は約430億ドル[2024年]に達している.
ダウ[Dow Inc.]はESG[環境・社会・ガバナンス]要素への対応にも力を入れており,特にプラスチック廃棄物の削減,循環型経済の推進,温室効果ガスの排出削減など,持続可能性に関する目標を掲げている.2030年までにスコープ1・2排出量を2005年比で15%削減し,2050年までにカーボンニュートラルを達成するという目標を設定している.2020年代に入ってからは,炭素中立を視野に入れた新技術開発,例えば電気分解による水素生産やCO₂再利用技術への投資も進めている.また,廃プラスチックのケミカルリサイクル技術開発にも積極的に取り組んでいる.
さらに,同社はDow 2030 Sustainability Goalsとして,プラスチック廃棄物問題の解決,革新的技術による気候変動対策,従業員と地域社会の安全と健康の向上という3つの柱を掲げ,具体的な数値目標とともに実行している.
このように,ダウ[Dow Inc.]は,19世紀末の臭素抽出技術から始まり,20世紀の総合化学,そして21世紀の再編と環境対応を経て,現在に至るまで化学産業の最前線を歩み続ける企業である.社会的責任と経済合理性とのバランスを取りながら,次世代の素材科学と地球環境への配慮の両立を図ることを企業理念の中核に据えている.現在,同社は持続可能な素材開発,デジタル技術の活用,グローバルサプライチェーンの最適化を通じて,化学産業の将来を牽引する役割を担っている.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.