フラマン地方

「近代絵画の基礎的な流れを作ったブリューゲルはフラマンの画家。ベルギーのって言いたくなるけどね。当時はベルギーという国はないから。あくまでもフラマンの画家。
フラマン地方のということになる。フラマンというのも国ではないから。
ちょっと時代を遡ってみると、1515年にスペインのカール5世(Charles-Quint、Charles ?)が現在のベルギーとオランダを含む17州地方を支配していたんだ。17まとめてPay-Basって呼ばれていた。
スペインというと、レコンキスタの運動で力を付けてきた国でしょ。当然、カトリック。一方の17州はっていうと、プロテスタント諸派に属する人々が結構いた。全員を国外に追い出すということは到底出来そうもないから、カール5世は自分にとっての次善の策として、プロテスタントの人々を出来る限りスペイン本土から遠ざけようって考えた...(本当にそれだけ?)....
ということで、17州のキタにはプロテスタント、ミナミにはカトリックという人工的区分が出来上がる。次のフェリペ2世(Philippe ?)の時代には対プロテスタント政策が一層厳しくなったから、ますますキタとミナミの区別がはっきりしたもになってしまう。
そうこうして、1579年には北部7州が「ユトレヒト同盟」っていう名のもとに団結して、81年にはフェリペ2世に叛旗を翻す。
オランダ独立戦争だ。この戦いで一族を挙げて戦いを主導したのがオレンジ公ウィリアム1世(Guillaume d'Orange)。ドイツ系だけど、現在のオランダ王室の祖。
オランダはこの戦いで勝利を収め、1648年のミュンスター条約で独立を勝ち取る。
このオランダ王国は独立の余勢をかって世界に躍進したことは良いよね。これに対して南部諸州の苦難はまだ続く。南部は、フラマン地方、ワロン地方からなっていて、ワロンというのはフランスに近い地方のこと。
いろいろな国からの支配を受けつづて、そのおかげで国民国家と呼ばれるものを形成する基礎作りが非常に遅れてしまうんだ。言葉の問題もそう。地方地方でバラバラのまま共通語というものを形成する暇がなかった。鶏と卵みたいになっちゃうけど。
北部のオランダにも、ナポレオン戦争の後で支配を受けている。
これは、17州のキタとミナミの再統一ともいえる一大事件だったんだけど、もうこの時代にはキタとミナミは全くの別物になってしまっていた。当然、フラマン地方を中心とするミナミはオランダ王国の『支配』を喜ぶわけがない。他の国に支配されるよりも、自分と同じ立場のはずの人々に支配されるっていうのは心理的にちょっとね。
ここに至って、フラマン地方などのミナミを自分達をミナミとして一体として考えるようになる。そうなってくると、もう選択肢は見えてくる。
そう、独立を目指すんだ。
フラマン地方、ワロン地方揃って、1830年に立ち上がり、オランダ勢力をミナミから追い出すことに成功。ようやく独立を果たすことになる。
ついでだけど、新生ベルギーは王政を選択するけど、王にはフラマン地方、ワロン地方の貴族ではなくドイツ人であったレオポルドを立てたというのも実情を表しているっていえるね」