ぶらぶら絵葉書

裏河岸

日本橋の裏河岸は、日本橋と一石橋との間に位置する日本橋川左岸(北岸)の河岸であり、江戸時代から水運と商業を支える重要な河岸として発展した地域である。日本橋川はおおむね西から東へ流れて隅田川に合流するため、下流を向いて左手にあたる北側が左岸にあたり、裏河岸はこの北岸に位置していた。

寛永年間(1624~1644年)に作成された『寛永江戸図』には、この地の町名が「なべ町」と記され、その河岸部分が「北かし」(北鞘町河岸)の一部として記載されている。すなわち、当時「北かし」と呼ばれていたのは町名ではなく河岸の呼称であった。この「北かし」という呼び方は、承応江戸絵図(承応年間・1652~1655年頃)にも引き継がれて記載されているが、その後の享保年中江戸絵図(享保年間・1716~1736年)では「品川丁ウラガシ丁」という表記に変化しており、江戸中期にはすでに「裏河岸」に近い呼称が定着しつつあったことがわかる。

この地域には、一石橋寄りに北鞘町、日本橋寄りに品川町が設けられ、それぞれの河岸は「北鞘町河岸(鞘町河岸)」「品川町裏河岸」と呼ばれていた。安政版の絵図(『日本橋北内神田両国浜町明細絵図』)では、日本橋の北詰から西へ「品川町裏河岸」、そこからさらに西方の一石橋までが「北鞘町の鞘町河岸」と記されており、両者が一体となって現在「裏河岸」と総称される地域を形成していたことがうかがえる。江戸時代の地誌『御府内備考(府志料)』には、品川町裏河岸について「里俗(俗称)に釘店(くぎだな)と云う、鋳物肆(いものし)多き故なり。古図に北河岸とあり」と記されており、鋳物屋・鍛冶屋が多く住んでいたことから「釘店」の俗称でも呼ばれ、古い地図には「北河岸」と記されていたことが確認できる。なお、品川町の町名の由来については、かつて「品革(しながわ)」(皮革製品)を製する者が居住していたことにちなむとする説もある。

明治時代に入ると、東京府は市街地の町名や河岸名の整理を進め、明治10(1877)年12月、日本橋から西の一石橋までの河岸地のうち、西河岸の対岸にあたるこの一帯を正式に「裏河岸」と命名した。これにより、江戸中期以来慣用的に用いられていた「品川町裏河岸」に由来する呼び名が、公的な地名として確立されることとなった。

裏河岸は日本橋川に面した立地を活かし、江戸時代から明治時代にかけて物資の荷揚げや水運の拠点として重要な役割を果たした。日本橋周辺には魚河岸や各種問屋が集積しており、裏河岸もそれらを支える河岸施設の一つとして、多くの船が往来する活気ある場所であった。もっとも品川町裏河岸自体は、前述のとおり鋳物屋・鍛冶屋が多く軒を連ねる職人町としての性格も強く持っていた。

昭和7(1932)年、関東大震災後の帝都復興計画の一環として行われた町名整理により、品川町裏河岸の町域は日本橋室町一丁目に編入されて消滅した。現在では当時の河岸施設は姿を消しているものの、その旧地は現在の日本橋室町一丁目のうち、日本橋大栄ビルや日本橋三越別館の南側にあたる一帯とされ、「裏河岸」の名称は日本橋の発展を支えた水辺空間の歴史を今に伝える地名として、その由来とともに語り継がれている。

中央区日本橋室町一丁目@2017-09.


今日も街角をぶらりと散策.
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