ぶらぶら絵葉書

旧日本橋魚河岸市場

日本橋魚河岸市場は、江戸の町づくりととも、日本の水産物流通の基礎を築いた市場として約300年にわたり発展した。その起源は徳川家康の江戸入府に遡る。天正18(1590)年、家康は江戸城内の台所(御膳所)へ供する魚を確保するため、摂津国西成郡佃村・大和田村(現在の大阪市西淀川区佃地区)の名主・森孫右衛門とその一族・漁民ら30数名を江戸へ招いた。彼らは日本橋本小田原町に屋敷を拝領して江戸内湾での漁業権を得、獲れた魚をまず幕府の御膳所へ献上した。その後、慶長年間(1596~1615年)に入ると、献上した残りの魚を日本橋のたもとで一般に販売することが許されるようになり、これが日本橋魚河岸の始まりとされている。

その後、江戸が政治・経済の中心都市として急速に発展すると、魚河岸も全国最大級の魚市場へと成長した。市場は日本橋の北側、日本橋川沿いの本船町・本小田原町・按針町一帯(現在の日本橋室町一丁目・本町一丁目付近)に形成され、江戸前で水揚げされた魚介類だけでなく、房州・上総・下総・相州・遠州など全国各地から船で運ばれてきた海産物も集荷された。魚問屋や仲買人が軒を連ねる町並みが形成され、早朝には威勢のよい競りが行われ、江戸市民の食生活を支える一大流通拠点となった。その賑わいぶりは、吉原遊郭・芝居町と並んで「一日千両」の商いがあると称されるほどであった。

日本橋魚河岸は、江戸幕府の公認市場として厳格な取引制度の下で運営された。魚問屋は品質管理や価格形成に重要な役割を担い、仲買人や小売商を通じて江戸市中へ魚介類が供給された。また、日本橋は五街道の起点であり、水運と陸運の結節点でもあったことから、物流面でも極めて優れた立地を有していた。隅田川や江戸湾を利用した舟運によって大量の魚介類を効率的に搬入できたことが、日本橋魚河岸の発展を支える大きな要因となった。

明治維新後も日本橋魚河岸は東京最大の魚市場として存続した。鉄道網の整備によって全国各地から鮮魚や水産加工品が集まるようになったが、日本橋近辺には貨物駅がなかったため、隅田川駅や汐留駅などで荷を下ろし、馬車やトラックに積み替えて市場まで運ぶ必要があった。市場周辺ではぬかるんだ地面に魚を並べる旧態依然とした販売方法が続いたこともあり、交通渋滞や衛生環境の悪化、たびたびのコレラ流行などが問題となり、近代都市東京にふさわしい市場制度への転換が求められるようになった。それでも魚河岸は、江戸以来の商慣行を受け継ぐ民間市場として活況を呈し、日本の水産物流通の中心的地位を維持し続けた。

しかし、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって、日本橋魚河岸は壊滅的な被害を受けた。市場施設や店舗の多くが焼失し、従来の場所で営業を再開することは極めて困難となった。このため、魚河岸の業者はまず芝浦での仮設市場を経たのち築地地区へ移転して仮営業を行い、東京都市圏への水産物供給を維持した。一方、東京市は震災復興事業の一環として、1923年に制定された中央卸売市場法に基づく近代的な中央卸売市場の建設を進めることとなった。

その結果、1935(昭和10)年2月11日に東京市中央卸売市場築地本場が開場し、日本橋魚河岸が担ってきた水産物流通機能は正式に築地市場へ引き継がれた。これにより、慶長年間の成立から約300余年続いた日本橋魚河岸は、その歴史に幕を下ろした。しかし、その商慣行や競りの文化、仲卸制度などは築地市場へ受け継がれ、さらに2018年に開場した豊洲市場へと継承されている。

現在、日本橋魚河岸が存在した市場施設は残されていないが、中央区日本橋室町一丁目の日本橋北詰東側には、1954(昭和29)年に魚市場関係者によって建立された「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑があり、江戸の食文化を支えた市場の歴史を今に伝えている。日本橋川の北岸に沿って、日本橋から江戸橋までの間に広がる町人地(本船町・小田原町・按針町一帯)全体が当時の魚河岸の範囲。旧魚河岸があった川沿いの陸側一帯にはオフィスビルが立ち並んでいるが、記念碑のある室町一丁目8番地先が、その中心地だった場所にあたる。

東京都中央区室町一丁目8番地先@2009-06.


今日も街角をぶらりと散策.
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