

万松寺通商店街
万松寺通商店街は, 名古屋市中区大須地区に位置する商店街であり, 宗教空間と門前町, さらに近代以降の都市商業が重層的に交錯する場として形成されてきた歴史的空間である.その名称が示す通り, この通りは万松寺の門前に由来し, 同寺院を中心とする参詣動線の一部として成立した.
万松寺は戦国期に創建された寺院であり, 天文9[1540]年, 織田信秀によって織田家の菩提寺として建立された.創建当初は現在の中区錦・丸の内2〜3丁目一帯に広大な寺領を持っていたが, 慶長15[1610]年の名古屋城築城に際して現在の大須3丁目に移建された.同寺は織田信秀の菩提寺であるとともに, 織田信長が父の葬儀において抹香を位牌に投げつけた「うつけ者」の逸話の舞台としても著名である.また, 後に徳川家康となる松平竹千代が人質として3年間を過ごした地としても知られており, 織田・徳川両家ゆかりの歴史的な寺院として広く認識されている.
万松寺が大須に移建された翌々年の慶長17[1612]年には, 美濃国[現・岐阜県羽島市]にあった大須観音[真福寺宝生院]が徳川家康の命により現在地に移転した.「大須」という地名はこの大須観音の移転に由来するものであり, 大須地区の門前町としての性格は万松寺とともに, この大須観音への参詣を主要な動線として形成されたものである.すなわち万松寺通の原型は, 宗教施設への参詣という人の流れに依存した前近代的商業空間に求めることができるが, その核は万松寺単独にとどまらず, 大須観音を含む複数の宗教施設の集積によって醸成されたものである.
江戸時代には, 第7代尾張藩主徳川宗春の芸能振興策のもとで, 芝居小屋・見世物小屋・遊郭など大衆娯楽施設が集積し, 大須一帯は名古屋有数の歓楽街・盛り場として繁栄した.また, 明治大正期には万松寺が寺領の大部分を開放したことによって周辺の市街化が進み, 大須商店街の現在の都市的骨格が形成された.
近代以降, 名古屋市の都市化と交通網の整備に伴い, 大須一帯は広域的な商業地へと変容する.その中で万松寺通商店街もまた, 門前町的性格を保持しつつ, 衣料品・雑貨・飲食など多様な業種が集積する都市型商店街へと発展した.特に戦後期には, 闇市からの復興を経て映画館・娯楽施設が林立する「庶民的繁華街」として再編が進んだ.なお, 名古屋で最初に全蓋式アーケードが設置されたのも万松寺通であり, 同通りが大須商店街全体のなかで先駆的かつ中核的な位置を担ってきたことを物語っている.
しかし1950年代以降, 若宮大通の開通による栄との分断や地下鉄・地下街の発展, テレビの普及に伴う映画館の衰退などを背景に, 大須一帯は一時的な斜陽期を迎えた.転機となったのは昭和52[1977]年の地下鉄鶴舞線「大須観音駅」開通と電脳街「アメ横ビル」の開業であり, 若年層を核とした新たな集客動線が形成されたことで商店街は再生への道を歩み始めた.
空間構成の観点から見ると, 万松寺通商店街は, 大須観音通・仁王門通・本通など大須商店街を構成する複数の通りのうちの一線でありながら, 宗教的核である万松寺と周辺の街路とを結節するハブとしての役割を担っている.参詣客・買い物客・観光客といった異なる目的を持つ人々が同一の通路を共有することで, 通りは単なる購買の場を超えた社会的交流の場として機能している.また, 近年においては若者文化やサブカルチャー関連店舗の進出により, 従来の門前町的・庶民的性格に加えて, ポップカルチャー的要素も重層的に付加されている点が特徴的である.
さらに注目すべきは, 宗教施設と商業施設の関係性の変容である.万松寺自体も現代的な再開発の中で, 織田信長のからくり人形や白龍のLEDモニュメントといったデジタル演出・イベント的要素を取り入れており, 寺院が単なる静的宗教空間ではなく, 都市的エンターテインメントの一部として再構成されている.その結果, 万松寺通商店街は, 伝統的な門前町の系譜を引き継ぎながらも, 現代都市における複合的消費空間として再定義されている.
愛知県名古屋市中区大須@2015-04.

今日も街角をぶらりと散策.
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