

房州堀跡
福岡県福岡市博多区祇園町に所在する万行寺の南側には, 近世都市博多の成立過程を具体的に物語る遺構として房州堀の一部が残されている.この堀は, 単なる水路ではなく, 都市計画と軍事的要請とが結びついた結果として形成された外堀であり, その成立は戦国時代末期の大規模な都市再編に遡るのである.
すなわち, 1587[天正15]年, 豊臣秀吉が主導した戦災からの復興と再編を目的とする都市計画の一環である「博多の町割り」において都市防衛の要として掘削された.この町割りは, それまで焼失していた博多の市街地を再構築し, 商業都市としての機能を回復させると同時に, 外敵に対する防御機構を整備する意図を持っていたものであり, 房州堀はその南東縁を画する外堀として設けられたのである.
房州堀という名称は, その築造に関与した人物に由来する.すなわち, 豊臣秀吉から博多の復興を託された小早川隆景の代官であった林掃部頭就長[Hayashi Narinaga]という人物が工事を指揮し, 彼の官名が「房州」であったことから, この堀は「房州堀」と称されるようになったと伝えられている.このように, 特定の土木事業と個人の官職名とが地名として固定化する事例は, 中世末期から近世初頭にかけての都市形成においてしばしば見られる現象であり, 当時の権力構造や行政体制を反映するものでもある.なお,林掃部頭就長は小早川隆景が隠居し,養子の小早川秀秋が筑前領主を継ぐと,隆景の命で秀秋を支える宿老として重用された.小早川秀秋が関ヶ原の戦いを経て岡山に移封された際も同行.1602年に小早川秀秋が若くして亡くなり小早川家が断絶すると,林家は毛利本家に戻り,その後は長州藩士として存続した.
構造的には, 房州堀はかつて博多の町の南東側を大きく囲繞する規模を有する堀であり, 防御線としての機能とともに都市の境界を明確化する役割を果たしていた.
しかし,1889[明治22]年12月11日,九州初の鉄道として,博多・千歳川[久留米]間を結ぶ九州鉄道[現在のJR九州]の開通に伴い,初代・博多駅[現在の出来町公園,博多区博多駅前1丁目付近]が設置され,この駅舎や線路敷設のために,堀の大部分が埋め立てられた.さらに,1909[明治42]年に現在の地下鉄祇園駅付近に2代目の博多駅舎が完成するまでの過程で埋め立てが進んだ.1963[昭和38]年,線路の高架化に合わせ,博多駅が現在の場所に移転した際の「博多駅地区土地区画整理事業」により,周辺の道路整備が進み,地表から完全に姿を消した.博多千年門が建っている承天寺通りは,かつて房州堀に沿って作られた道である.つまり,承天寺通りの一部や,その脇にある歩道・植え込みの下に,かつての巨大な堀が埋まっている.江戸時代,博多千年門の位置には辻堂口門という木製の門があり,房州堀を渡って寺社街へ入るためのチェックポイントとなっていた.
従って,万行寺南側に見られる石垣の一部は, かつてそこが「巨大な堀の縁であった」ことを視覚的に確認できる唯一に近い貴重な場所として重要な意味を持つ.
福岡県福岡市博多区祇園町@2016-11.

今日も街角をぶらりと散策.
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