ぶらぶら絵葉書

都営三田線[I]

都営三田線は, 東京都品川区の目黒駅から同板橋区の西高島平駅に至る地下鉄路線であり, 東京都交通局が運営する都営地下鉄の一つである.路線記号はI, ラインカラーはブルー[青].路線記号 I の由来は,MITA[三田のローマ字表記]の2文字目.本来なら頭文字 M を使うところであるが, 丸ノ内線[Marunouchi]がすでに M を使用していたため, やむなく2文字目の I が採用された.同様の事情は他路線にもあり, 半蔵門線[HANZOMON]は H が日比谷線, A が浅草線, Nが南北線の路線記号と重なるため4文字目の Z となり,大江戸線[OEDO]は O が数字の 0[ゼロ] と混同されやすいことを理由に2文字目の E が採用されている.

路線距離は26.5キロメートル, 駅数は27駅.目黒から日比谷・大手町などの都心部を経由して板橋区北西端まで, 西に向いた逆C字型を描くように走り, 東武東上線とともに板橋区民の交通の大動脈として機能している.現在は東急目黒線・東急新横浜線・相鉄線との相互直通運転を通じて, 神奈川県方面まで広がる広域ネットワークの一部を構成している.

 この路線の成立は, 戦後東京における地下鉄整備政策の変化と深く結びついている.三田線の前身は, もともと1962年[昭和37年]の都市交通審議会答申第6号において「地下鉄6号線」として示された計画であり, 当初は東武東上線および東急池上線・田園都市線との相互直通運転を前提に設計されていた.この直通計画に応じ, 東京都は軌間を東武・東急と同じ1067mmに変更し, 浅草線とは別に志村車両基地を新設するなど大幅な計画変更を行った.しかし1965年に東急が, さらに1960年代末から1970年代初頭にかけて東武が相次いで乗り入れ先を有楽町線へと変更する経営判断を下し, 都交通局が強く抗議したにもかかわらず両社の意向に押し切られた.この経緯は三田線が長年にわたり孤立した独立路線として運営せざるを得なかった根本的要因であり, 路線の構造と発展の歴史を理解するうえで不可欠な背景である.

 建設は1960年代後半から進められ, 1968[昭和43]年12月27日に当時の路線名称である都営6号線として, 巣鴨–志村[現・高島平]間10.4キロメートルが開業した.開業時の車両は6000形4両編成であり, ラインカラーは当初赤色であったが, 1970年に現在のブルーへと変更された.その後路線は段階的に南北へ延伸され, 1972[昭和47]年6月30日には日比谷〜巣鴨間が開通して都心業務地区へのアクセスが実現した.翌1973[昭和48]年11月27日にはさらに三田–日比谷間が延伸され, 路線の都心部における骨格が形成された.

 北側については, もともと高島平–西高島平間は東武鉄道が建設する予定の路線であったが, 東武が乗り入れ先を有楽町線に変更したことを受け, 東京都が1972年に同区間の免許を東武から譲り受けた.これにより東京都自らが建設することとなり, 1976[昭和51]年5月6日に高島平–西高島平間が延伸開業して現在の北側の路線構成が完成した.なお, 当時は西高島平からさらに埼玉県戸田市・浦和市・大宮市方面への延伸が都市交通審議会答申第15号に盛り込まれ, 西高島平駅は将来の延伸を前提とした構造で建設されたが, 国鉄埼京線開業の影響などにより1985年の運輸政策審議会答申において延伸計画は撤回され, 今日に至っている.また1978[昭和53]年7月1日には路線名称が「都営6号線」から「都営三田線」へと改称された.

 開業から長年にわたり三田–西高島平間の独立路線として運営されてきた三田線に大きな転機が訪れたのは2000年のことである.2000[平成12]年9月26日に三田–目黒間4.0キロメートルが延伸開業し, 同区間のうち白金高輪–目黒間は東京メトロ南北線との共用区間として建設された.この区間では東京都交通局が第二種鉄道事業者として乗り入れる形態となっており, 施設は東京メトロが管理している.延伸と同時に東急目黒線[同年に目蒲線を改編して発足]との相互直通運転が開始され, 三田線は開業以来32年を経てようやく他社直通運転を実現した.さらに2023[令和5]年3月18日には東急新横浜線・相鉄新横浜線が開業し, 三田線は相鉄本線・いずみ野線への直通運転も開始した.これにより東京都の地下鉄でありながら横浜・海老名・湘南台まで直通する広域ネットワークの一翼を担う路線へと変貌を遂げた.

 三田線は都営地下鉄の中でも比較的穏やかな曲線と長い直線区間を持ち, 地下鉄としては走行条件に余裕のある構造となっている.志村坂上以北の志村三丁目–西高島平間は地上高架構造となっており, 三田線は都営地下鉄の路線中最長距離の地上区間[5.1キロメートル]を持つ.志村坂上–志村三丁目–蓮根–西台間にS字カーブが連続しているが, これは建設計画段階においてルートが幾度も変更された名残である.

 沿線には日本の政治・行政・教育機関が集中する地域が多い.神保町駅周辺は古書店街と大学が集まる学術文化地区であり, 三田駅周辺には慶應義塾大学の三田キャンパスが位置する.内幸町駅付近は霞が関官庁街や日比谷のビジネス地区に隣接し, 官公庁職員や企業勤務者の利用も多い.一方, 北側の板橋地域では高度経済成長期に大規模な住宅開発が進んだが, 都営地下鉄4路線の中では最も輸送人員が少ない路線であり, 板橋区内11駅の1日平均乗降人員はいずれも4万人を下回っている.最混雑区間は新板橋–巣鴨間であるが, 東西線や千代田線のような極端な混雑は生じていない.

 三田線はその複雑な建設経緯と長年の孤立路線という不遇の歴史を経て, 2000年代以降の直通ネットワーク拡大により首都圏広域交通の担い手へと変貌した.戦後東京における都市交通政策の変遷, 事業者間の思惑と妥協, そして計画と現実のせめぎ合いを体現する路線として, 三田線は鉄道史上きわめて示唆に富む事例であり続けている.

目黒駅[I-01]


@2018-03.

白金台駅[I-02]


@2016-12.

内幸町駅[I-07]


@2026-02.

春日駅[I-12]


@2026-02.

巣鴨駅[I-15]


@2020-07.

板橋区役所前駅[I-18]


@2020-07.

板橋本町駅[I-19]


@2020-07.

志村坂上駅[I-21]


@2024-05.

志村三丁目駅[I-22]


@2018-07.

新高島平駅[I-26]


@2018-07.

西高島平駅[I-27]


@2018-07.


今日も街角をぶらりと散策.
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