ぶらぶら絵葉書

岡昌裏地ボタン店

岡昌裏地ボタン店は, 1928[昭和3]年に竣工した看板建築の代表的遺構である.東京都千代田区神田須田町に位置し, 木造2階建ての店舗併用住宅として現在も営業を続けている.外壁は全面的に銅板で覆われており, 長年の風雨により生じた緑青が独特の質感を示し, 震災復興期の都市景観と建築文化を今日に伝えている.

看板建築とは, 1923[大正12]年の関東大震災後の復興期に東京の商店街で広く採用された建築形式である.震災によって伝統的な町屋が大量に失われた一方, 鉄筋コンクリート造ビルを建てるだけの資力を持たない中小商店主は, 木造建物に不燃・準不燃の外装材を施す手法を選んだ.1919[大正8]年に制定された市街地建築物法は, 準防火地域において木造建築の外壁に不燃材・準不燃材を使用することを求めており, 銅板・モルタル・タイルなどで正面を覆う看板建築は, この法体系と復興需要が結びついて成立した実用的建築類型である.

岡昌裏地ボタン店の最大の特徴は, 街路に対して垂直に立ち上がる平坦なファサードである.伝統的な町屋のように深い軒を張り出さず, 正面を一枚の平面として構成し, そこに洋風意匠を施す点に看板建築の特色がある.こうした立て看板状の立面構成は, 震災復興事業による道路拡幅や区画整理で間口の狭い敷地が増えたことに対して, 限られた空間を有効活用するための合理的手法として広まり, 街路に独特の連続した景観をもたらした.

看板建築の設計は必ずしも専門の建築家によらず, 大工棟梁や施主が主導することも多かった.詳細図面を作成せず, 現場判断を伴いながら仕上げが進められることもあり, 場合によっては画家や手工芸に長けた施主が意匠に関与する例もあった.平滑な正面壁は「表現のキャンバス」として機能し, 専門教育を受けていない者でも自由に装飾を行えることが, 看板建築の多様で独創的な外観を生み出した.岡昌裏地ボタン店の銅板張りファサードに見られる細やかな加工や表面処理にも, 職人と施主の創意工夫が刻まれている.

銅板が外装材として普及した背景には, 当時の国際的な銅価格の下落と, 復興需要に対する大量供給の可能性があった.看板建築は銅板外装を一般化させる契機となり, 酸化により発生した緑青は年月の蓄積を可視化する素材特性として評価されている.岡昌裏地ボタン店の深い緑色は, 約1世紀にわたる時間の堆積そのものである.

看板建築は正面のみが洋風意匠で仕上げられ, 側面や背面は伝統的な木造の構法を保持する点に特色がある.1階前面を店舗, 1階奥と2階を居住空間とする構成は町屋の形式を継承しており, 西洋的外観をまとう一方で日本的な生活空間を内包する折衷的な建築であった.

岡昌裏地ボタン店は, 1897[明治30]年の創業以来, 紳士服の裏地やボタンを扱う専門店として営業を続けてきた.震災復興期の看板建築は東京でも多く失われ, 現在まで創建当初の姿を保ちながら現役の商業施設として存続する例はきわめて稀である.本建物は昭和初期の商店建築の実態を示す貴重な歴史資料であり, 都市の記憶を具体的な形で伝える文化的価値を有している.

「看板建築」という名称は, 建築史家・藤森照信と堀勇良によって1975[昭和50]年に提示された概念であるが, 岡昌裏地ボタン店はその学術的再評価以前から街に根づき, 現在まで生き続けてきた歴史的建造物である.

東京・千代田区神田須田町@2023-03


今日も街角をぶらりと散策.
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