ぶらぶら絵葉書

池善ビル

池善ビル[池善化粧品ビル]は, 京都市下京区四条通河原町東入ル真町に所在する小規模商業建築であり, 京都随一の繁華街である四条河原町交差点の南西角という一等地に位置する.1930[昭和5]年に竣工した本建築は, 洋風建築がまだ珍しかった昭和初期の京都における近代商業建築の一例であり, 戦後の高度経済成長期を経て, 巨大な京都高島屋に完全に取り囲まれながらも, 約90年にわたり独立性を保ち続けてきた「ド根性ビル」として知られている.

池善ビルは, 池善化粧品店を営む池田家によって建設された鉄筋コンクリート造3階建ての小規模商業ビルである.設計者について明確な記録は残されていないが, 昭和初期の京都における小規模商業建築の標準的様式を示している.外観は装飾を抑えた簡素な近代建築様式で, 当時としては先進的な鉄筋コンクリート造を採用している点が特徴的である.

池善の屋号は, 池田家が江戸時代に池田藩で甲冑師として武具を製作し, 京都御所に納めていた家系に由来する.明治に入り先々代が金物屋「池田屋善兵衛」を創業し, 「池善金物店」として四条小橋西で営業していた.1930[昭和5]年, 先代が四条河原町の一等地に進出し, 池善化粧品店として業態を転換するとともに, 自社ビルである池善ビルを建設した.

池善ビルの建築史的・都市史的意義は, その規模や様式よりもむしろ, 戦後の京都における商業地開発の変遷を体現する「場所性」にある.戦後, 隣接地に進出した京都高島屋は増築を繰り返し, 1960年代から1970年代にかけて池善ビルの三方を完全に取り囲む形で拡張した.結果として, 高島屋の巨大な建物群の中に, わずか5坪[約16.5平方メートル]程度の小さな「くぼ地」として池善ビルが残される特異な都市景観が形成された.

この状況は, 高度経済成長期における大規模商業開発と個人商店の対立を象徴的に示している.多くの地権者が土地を売却し商店街が消失していく中, 池善は一貫して独立性を保ち続けた.その背景には, 創業家の「一等地で商いを続ける」という誇りと決意があったとされる.四代目社長を務めた井上清次氏[1932年生まれ]は, バブル期における不動産業者や高島屋からの度重なる買収・移転の申し入れを拒否し, 「ここで店を守る」という姿勢を貫いた.

池善ビルは3階建てで, 各階の床面積は極めて小さい.1階は店舗スペース, 2階と3階は事務所または倉庫として利用されていた.外観は簡素な鉄筋コンクリート造で, 窓の配置や開口部の処理は昭和初期の商業建築に典型的なものである.装飾は最小限に抑えられ, 機能性と経済性を重視した設計である.2階には小規模なイートインスペースが設けられ, 四条河原町の喧騒を眼下に眺めながら休憩できる稀有な空間として知られていた.3階は基本的に2階と同様の構成で, 天井高も低く, 居住性よりも倉庫的機能が優先されている.

2020年12月, 創業以来90年にわたり営業を続けてきた池善化粧品店は閉店した.これに先立ち, 1階で営業していた新雪毛糸店と尾州屋老舗も相次いで閉店したが, 建物は解体されることなく, テナントビルとして再生される道が選ばれた.2021年以降, 3つのテナント区画は入れ替わり, 正式名称は「ユーイットゥ池善ビル」とされ, 株式会社リバティ池善が管理している.外観についても改修が検討されているが, その特異な立地と歴史的経緯から, 四条河原町における「記憶の場所」としての価値は今なお認められている.

池善ビルは, 建築様式や技術的革新という点では特筆すべき要素を持たないが, その存在は都市開発史の証人として重要である.高度経済成長期における大規模商業開発の波に抗し, 個人商店が独立性を保ち続けた稀有な事例であり, 巨大資本による均質化された商業空間の中に, 人間的スケールの小建築が残存することの意味を示している.また, 京都における「町衆」の商業精神と, 場所への愛着・誇りを体現する建築である.日本の都市開発において, 大規模再開発に取り残された, あるいは抵抗した小建築群を「ド根性ビル」と呼ぶ文化が生まれたが, 池善ビルはその京都における代表例である.

池善ビルは, 京都市が2018年に制定した「京都を彩る建物や庭園」にも選定され, 歴史的建造物としてではなく, 都市の記憶を伝える文化的資産として位置づけられている.総じて, 池善ビルは昭和初期の小規模商業建築という建築類型に属しながら, その立地と存続の経緯によって, 近現代京都の都市史・商業史を語る上で欠かせない象徴的存在である.

京・四条通河原町東入ル真町@2012-04


今日も街角をぶらりと散策.
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