日産村山工場
工場は敷地面積約139万平方メートルに及ぶ広大な規模を誇り, 武蔵村山市を中心に一部は立川市にまたがっていた.1964年度から1966年度にかけては, 労働者を受け入れるために都営村山団地が建設され, 地域経済の中核を形成する存在となった.工場にはテストコースも併設され, プリンス自動車時代から日産時代にかけて主力の生産拠点として機能した.プリンスの技術者には戦前の立川飛行機出身者も多く, その技術的系譜が自動車生産へと受け継がれたことも, この工場の成立背景に深く関わっていた.
しかし, バブル崩壊以降の需要変動や, 1999年に発表された「日産リバイバルプラン」による生産拠点再編の中で, 国内工場の整理が進められ, 村山工場も閉鎖対象となった.2001年3月30日に車両生産を終了し, 最終生産車はスカイラインおよびローレルであった.その後は一部部品の製造が継続されたが, 2003年3月末にすべての操業を停止し, 工場としての歴史を閉じた.閉鎖の際には従業員の配置転換や地域経済への影響が大きく取り沙汰された.
閉鎖後, 跡地は大規模な再開発の対象となり, 商業施設や公園などへと転用された.その代表が「ダイヤモンドシティ・ミュー」[現・イオンモールむさし村山]であり, 敷地内には「プリンスの丘」と名づけられたモニュメントが設置されている.また, 往年のスカイラインやグロリアが里帰りするイベントも開催され, かつて自動車産業を支えた工場の記憶を今日に伝えている.村山工場跡地が地域の日常生活に根ざした空間へと転じたことは, 日本の産業構造と都市の変容を象徴するものである.
@2002
今日も街角をぶらりと散策.
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