川俣大将塚
この塚は, 源平合戦後に奥日光の山奥へ落ち延びたとされる平藤房[藤原藤房とも称される]という武将の墓所と伝えられている.
川俣地区は, 鬼怒川上流部の山深い渓谷に位置し, 外部からのアクセスが極めて困難な地形となっている.この地理的特徴が, 敗軍となった平家方の落人たちにとって理想的な隠れ場所を提供したものと考えられる.川俣温泉として知られる温泉地でもあり, 療養にも適した環境であったことが, 落人たちがこの地に定着した理由の一つとして推測される.
平藤房については, 史料上その実在を明確に裏付ける記録は残されていない.しかしながら, 地域に伝承される落人伝説では, 平家方の有力武将として語り継がれており, 大将塚という名称もその高い地位を反映したものと考えられる.藤原姓を名乗っていることから, 平家に与した藤原氏の一族である可能性も指摘されている.
川俣地区には大将塚以外にも, 平藤房に関連する史跡が点在している.特に「平家杉」と呼ばれる巨木は, 落人たちがこの地に定着した際の記念樹, あるいは墓標代わりとして植樹されたものと伝えられている.これらの杉は樹齢数百年を経た古木であり, その存在自体が平家落人伝説の古さを物語っている.
大将塚の構造については, 一般的な中世の武将墓と同様の形式をとっていると推測される.土を盛り上げた墳丘墓の形態をとり, その上に五輪塔や板碑などの供養塔が建立されていた可能性がある.ただし, 長年の風雨により原形を留めない部分も多く, 現在では塚の痕跡を確認するのみとなっている箇所もあると考えられる.
川俣地区の平家落人伝説は, 隣接する湯西川温泉の平家落人伝説と密接な関係を持っている.両地域は鬼怒川水系で結ばれており, 落人たちの移動ルートとしても重要な意味を持っていたものと推測される.湯西川温泉では平清盛の孫である平頼時が開祖とされているが, 川俣地区では平藤房という別系統の武将が主人公となっており, 複数の落人集団がそれぞれ異なるルートでこの地域に到達したことを示唆している.
地域の文化的側面として, 川俣地区では長年にわたって平家落人の子孫と称する住民が存在していたとされる.彼らは独特の文化や習俗を維持し, 外部との接触を避ける傾向があったと伝えられている.正月飾りに赤い色を使わない, 鶏を飼わない, 鯉のぼりを立てないなど, 源氏の象徴や合戦を連想させるものを忌避する習慣があったとされ, これらは平家の怨念や記憶を今に伝える民俗学的に興味深い事例である.
@2002-11
今日も街角をぶらりと散策.
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