ぶらぶら絵葉書

伝 河越重頼の墓

河越重頼[かわごえしげより, 生没年未詳-1186]は, 平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて武蔵国を本拠とした武士であり, 桓武平氏の流れを汲む秩父氏の庶流である河越氏の一族である.河越氏は武蔵国入間郡河越, すなわち現在の埼玉県川越市周辺に河越館を拠点として構え, 重頼はその嫡流に属していた.重頼は秩父党の有力武士の一人であり, 祖父の秩父重隆も任じられた「武蔵国留守所総検校職」に任じられ, 武蔵国における軍事的統率権を持つ重要な地位にあった.

重頼の妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女[河越尼]であり, 源頼家の乳母を務めたと伝わる.また, 重頼の娘である郷御前は源頼朝の命によって源義経に嫁がされ, 河越氏は源氏との姻戚関係を結ぶことになった.河越氏は早い時期から源頼朝に従っており, 重頼自身もまた鎌倉幕府創設に大きな役割を果たした有力御家人であった.

しかしながら, 源義経が頼朝と対立し, やがて鎌倉を追われる身となったことは重頼にとって致命的な事態であった.義経の妻の実家である河越氏もまた頼朝の疑念を受けることになり, 文治2[1186]年に頼朝の命によって誅殺されたと伝わる.これは河越氏にとって大きな打撃であったが, 重頼の三男である河越重員が後に家督を継承し, 嘉禄2[1226]年には鎌倉幕府によって河越氏の復権が認められ, 重員が再び総検校職に任じられた.

川越市元町の曹洞宗青龍山養寿院には, 重頼の墓と伝えられる五輪塔が現存している.この五輪塔は, 仏教における宇宙観を表現した供養塔の形式であり, 下から方形[地], 円形[水], 三角形[火], 半月形[風], 宝珠形[空]の五つの部分で構成されている.それぞれが自然界の五大要素を象徴し, 故人の成仏と極楽往生を願う意味が込められている.

五輪塔の起源は平安時代に遡り, 弘法大師空海の発案とも伝えられる古い形式の供養塔である.一般的な四角柱状の墓石が江戸時代に普及したのに対し, 五輪塔ははるかに古い歴史を持つ.重頼の五輪塔は, 鎌倉時代から室町時代にかけての建立と推測され, 中世武士の墓制を知る上で貴重な遺構である.

養寿院は寛元元[1243]年に重頼の曾孫である河越経重が大檀那となり, 大阿闍梨円慶法師によって創建された寺院である.当初は天台宗系の密教道場であったが, 天文4[1535]年に曹洞宗に改められた.本堂には河越氏が京都東山の新日吉山王社に寄進した文応元[1260]年銘の銅鐘が保存されており, この銅鐘は国の重要文化財に指定されている.銘文には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」とあり, 河越氏の勢力と信仰を物語る重要な史料である.

重頼の五輪塔は本堂の左脇に位置し, 長年にわたって地域住民の信仰を集めてきた.石材は地域で産出される安山岩系のものを用い, 風雨にさらされながらも基本的な形状を保持している.各部の梵字や銘文については風化により判読が困難な部分もあるが, 五輪塔としての基本的な構造は明確に確認できる.この五輪塔は必ずしも史料的に重頼の墓であることが確証されているわけではないが, 中世以来の伝承に基づき河越氏の歴史を物語る遺跡として今日まで大切に保存されている.

川越@2006-10


今日も街角をぶらりと散策.
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