源融の墓
源融は嵯峨天皇の第十二皇子とされる.若くして臣籍に下り, 源姓を賜った.官位は 左大臣 を務め, 最終的に 従一位 に至った.没後には 正一位 を追贈されている.政治的に高位であったが, 同時に和歌や雅楽を愛し, 貴族文化の洗練を体現する存在でもあった.とりわけ嵯峨野に営んだ山荘棲霞観[せいかかん]は, 彼の美意識を示す代表的な遺跡である.棲霞観は愛宕山麓の風光明媚な地に設けられ, 中国・揚州の棲霞寺にちなむ唐風趣味の庭園であり, 平安貴族の別業の典型例とされる.
この棲霞観が後に寺院化して棲霞寺となり, さらに奝然が宋から請来した釈迦如来像を安置するための釈迦堂を建立したことで, 現在の清凉寺へと展開した.したがって, 源融は清凉寺の事実上の開基的存在と位置づけられる.
清凉寺境内の源融の墓は, 棲霞観に隣接して彼が葬られたとの伝承に由来する.現存する墓は 石造宝篋印塔風の供養塔 であり, 後世に修築された形跡がある.実際の葬地については, 鴨川付近にあったとの説も存在するが, 清凉寺に伝えられている墓にはこの地との深い結びつきを感じさせる意義がある.現在も訪れる参詣者は, 本尊釈迦如来像と合わせて源融の墓にも手を合わせ, 寺とその文化的背景に思いを馳せている.
源融はその風雅な人物像から, 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることがあるが, これは一説にすぎず, 光源氏が複数の歴史上の人物をモデルとした複合的なキャラクターであるという見方が一般的である.そのため, 源融の墓は清凉寺における宗教的遺跡であると同時に, 平安文化史上の重要な場と位置づけられる.
@2023-01
今日も街角をぶらりと散策.
index