ぶらぶら絵葉書

河原院跡

京都市下京区木屋町通五条下ルに伝わる河原院跡は, 平安時代の上流貴族である源融の邸宅河原院があった地である.源融[822/895]は嵯峨天皇の皇子であり, 嵯峨源氏の祖として知られ, 文雅の士としても名高い人物であった.彼は左大臣に至ったことはなく, 官位は正二位・大納言にとどまったが, 歌人として『古今和歌集』に撰ばれるなど, 政治・文化の両面で存在感を示した.

河原院は, 賀茂川[鴨川]西岸に築かれた広壮な邸宅であり, その規模は4町[一説には8町]に及ぶ広大なものであった.具体的には, 南は六条大路, 北は六条坊門小路, 東は東京極大路, 西は万里小路に囲まれたと伝えられ, 現在の地名でいえば北は五条通・南は正面通・西は柳馬場通・東は鴨川にあたる範囲と考えられている.

庭園には河原院の池と称される大規模な庭池が設けられていた.この池は融が陸奥国塩竈の風景を模して築造させたと伝えられ, 尼崎から海水を運ばせて潮の干満を再現しようとしたという逸話が残る.これにより河原院は当時の人々から六条河原院あるいは河原左大臣の邸と呼ばれ, 京中の名所として知られる存在であった.現在も河原町五条付近に塩竈町という町名が残り, 往時の河原院の記憶を地名にとどめている.

源融の没後, 邸宅は一時藤原氏の所有を経て宇多天皇に献上され, 六条院として皇族の離宮となった.しかし, やがて荒廃し, 後世には荒れ果てた旧邸として和歌や物語の題材となった.『源氏物語』においては, 光源氏の邸宅六条院のモデルの一つともされ, また夕霧巻には河原院の荒廃した様子が描かれている.さらに『枕草子』では池は河原院の池として美しい池の筆頭に挙げられ, 当時の名声を物語っている.

現在, かつての河原院の跡地は京都市下京区木屋町通五条下ルに比定されている.高瀬川沿いに河原院跡と刻まれた石碑が建てられており, 往時の邸宅の規模を直接に示す遺構は残されていないが, 歴史的な記憶を伝える場となっている.この石碑は近世以降に整備された高瀬川の堤沿いに位置しており, 都市の変遷の中で河原院が失われつつも, 源融の名と共に文化史的記憶として継承され続けている.

@2018-06


@2022-01


今日も街角をぶらりと散策.
index





















- - - -