ぶらぶら絵葉書

弘前城

弘前城は,青森県弘前市に所在する平山城であり,津軽氏の居城として江戸時代を通じて機能した城郭である.築城は初代藩主津軽為信の時代に構想されたが,完成を見ずして没し,2代藩主信枚が慶長16[1611]年に本丸を中心とする主要部分を完成させた.岩木川東岸の微高地に立地し,外郭・三の丸・二の丸・本丸の郭構成をもち,水堀や石垣を備えた堅固な城である.築城の背景には,豊臣政権から徳川政権へと移行する時代の不安定さがあり,防御と権威を兼ね備えた城郭が志向された.

最初に築かれた天守は,本丸西南隅に建つ5層の堂々たるものであったが,寛永4[1627]年9月5日に落雷によって焼失したと伝えられている.その後,藩は長らく天守を再建せず,櫓や門を中心に城郭機能を維持した.火災の翌年,津軽信枚は帰依する天海僧正のすすめに従い,魔除けの意味を込めて「鷹岡城」を「弘前城」に改名したと伝えられている.

現存する天守は9代藩主津軽寧親が文化7[1810]年に再建したものである.再建に際しては幕府の許可を得る必要があったため,「三層櫓造営」の名目で申請し,形式的には御三階櫓とされたが,実質的には天守としての性格を備えている.場所も元の西南隅ではなく,本丸東南隅に移されている.

この現存天守は三重三階の独立天守であり,江戸時代後期天守の典型とされる.外観は破風や懸魚を白漆喰塗とした切妻屋根の張出を東面と南面に設け,二の丸側からの眺めに華やかさを与える一方,北面・西面や内部は質素な造りとされている.この対比は幕末期の実用性を重視した設計と,形式的な威容保持の双方を反映している.東北地方に現存する唯一の天守であり,全国に現存する12天守の一つとして国の重要文化財に指定されている.

城内には天守以外にも多くの櫓や門が残され,三の丸追手門,三の丸東門,二の丸東門,二の丸南内門,二の丸北門,辰巳櫓,未申櫓,丑寅櫓などが現存し,いずれも重要文化財となっている.これらの遺構群は近世城郭の構成を良好に伝える点で学術的価値が高い.さらに石垣も広範に残され,堅固な城郭構造を今に伝えている.

1871[明治4]年の廃城令により弘前城も廃城となったが,取り壊しを免れ,1895[明治28]年に弘前公園として一般公開された.以後,市民の憩いの場となり,特に桜の名所として広く知られるようになった.明治・大正期以降に植えられた桜は現在約2,600本に及び,毎年春の弘前さくらまつりには国内外から大勢の観光客が訪れる.城郭の石垣と水堀,天守と桜の景観が織りなす光景は,日本を代表する城郭景観の一つである.

近年,石垣の老朽化が深刻化し,とりわけ本丸東面の石垣には外側への膨らみ[はらみ]が見られ,崩落の危険が指摘された.このため,2015[平成27]年7月から9月にかけて,現存天守を基礎から分離し,約70メートル西北方向へ曳屋する大規模工事が行われた.総重量約400トンの天守を2か月かけて移動させるという事業は前例の少ないものであり,全国的な注目を集めた.石垣修理は2026年まで行われる予定で,完了後には天守を元の位置に戻す計画が進められている.

弘前城は,津軽藩の歴史を物語る象徴であると同時に,近世城郭の構造を広範に伝える貴重な遺産である.さらに桜の名所としての景観的価値,曳屋を伴う保存事業の先進性を兼ね備え,歴史・建築・景観の三位において高い意義を有している.その存在は地域文化の核であり,日本の城郭文化を代表するものの一つと位置づけられる.

@2010-05


今日も街角をぶらりと散策.
index





















- - - -