石棒さま
東京都中野区中央1丁目にある石棒さまと呼ばれる庚申塔は,正式には塔山庚申塔である.もともとは宝永5[1708]年に建立された江戸時代中期の石塔であり,山手通りの旧道にあたる道と成木街道・青梅街道の旧道の差するあたりに奉られていた庚申塔だったが,太平洋戦争中の昭和20年の空襲により破壊された.その後,地元住民が戦災で散乱した石片を集め,セメントで成型し直して祀り直した結果,石棒のような姿となり「石棒さま」として親しまれるようになったのものである.
その後,庚申塔は戦前の位置よりやや北へ移設され,現在では中野区立中野東中学校[旧中野区立第十中学校]脇の路地にある,小さなお堂に祭られている.
塔山[とうのやま]と称された地名にちなんで命名されたこの庚申塔は,もとあった宝仙寺三重塔の跡地とも近接しており,周辺地域はかつて塔を擁する小高い場所とされていた.庚申信仰は中国の道教に由来し,十干の「庚[かのえ]」,十二支の「申[さる]」が組み合わさった57番目の干支に基づく民間信仰である.庚申の夜は体内にいる三尸[さんし]という虫が天帝に悪行を告げ口するのを防ぐため,人々は徹夜して過ごすという庚申待ちの行事が行われ,その記念として庚申塔が建立されることが多かった.
この庚申塔は,もともと人々の安全や健康,そして共同体の結束を祈念して建てられた宗教的・民間信仰の遺物である.戦後の再構築は地域住民の郷土愛と記憶をつなぐ象徴的な行為とも言える.石片を用いてセメントで固め直した形状は,元の笠付き塔の容姿をほとんど留めず,棒状の単純な形態に変化したものの,現在でも石棒さまとしてその由来と存在意義が語り継がれている.戦災という悲劇的な体験を経た後も,地域住民の手によって復活し,新たな形で信仰と記憶の対象として機能し続けていることは,都市化が進む東京において貴重な文化的連続性を示している.
石棒さまは地域の平和史跡として中野区の案内にも記載されており,戦争の記憶を後世に伝える平和教育の資料としても位置づけられている.また,庚申信仰という江戸時代の民間信仰の痕跡でもあり,近世から近代,そして現代に至る宗教文化の変遷を物語る歴史的資料でもある.現代では庚申信仰そのものを理解する人は少なくなったが,地域の守り神的存在として,また戦争体験の証言者として,石棒さまは多層的な意味を持ち続けている.
このように,石棒さまは江戸から昭和,そして現代に至る地域の歴史と人々の記憶が凝縮された存在であり,都市空間の中に潜む平和の歴史的証人としての価値を持つものである.同時に,民間信仰の持続性と変容,地域共同体の結束力,そして文化的記憶の継承という複数の観点から考察すべき重要な文化遺産として位置づけることができる.
@2023-02
今日も街角をぶらりと散策.
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